留学以降(1915-1923)
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「可児徳」の記事における「留学以降(1915-1923)」の解説
1915年(大正4年)、長年の夢であった留学の許可が下りるが、第一次世界大戦の真っただ中という時勢のため、留学先はドイツではなくアメリカとなった。3月に日本を出発し、5月から10月までシカゴ大学でエイモス・アロンゾ・スタッグに師事して競技スポーツを学んだ。11月からはマサチューセッツ州・スプリングフィールドのYMCAカレッジ(現・スプリングフィールド大学(英語版))に移って体育一般の研究を行い、翌1916年(大正5年)7月から9月までアメリカ各地の体育の状況の視察に出かけ、10月にスプリングフィールドに戻り研究を続けた。留学中のある日、可児はボストンで散歩中に見慣れない球技をする老人の集団を見かけた。可児は老人らに競技法を教わり、帰国後に学生に広めた。これがバレーボールである。一部の教師はバレーボールをする学生や指導する可児に非難の目を向けたが、学生らは教師に叱られながらもバレーに熱中した。 アメリカ留学の許可期間は2年間であったが、可児は1917年(大正6年)10月30日までの延長を申請し、スウェーデンに渡航する許可も与えられた。ところがその後も第一次世界大戦の戦況は激しさを増すばかりで、「危険につき渡欧の議見合わせよ」との電報が日本から届き、やむなく1917年(大正6年)11月26日に日本へ帰国した。ヨーロッパ留学の夢を絶たれた可児であったが、折しも日本ではストックホルムオリンピックや極東選手権競技大会といった国際大会への日本人の出場を通してスポーツへの関心が高まっており、良き指導者が求められる時勢となっており、アメリカで競技スポーツを学んだ可児はまさにうってつけの人材であった。また留学経験は、留学前から競技と遊戯(スポーツ)に教育効果があると考えていた可児の自信を高めることとなり、可児の体育観は大正自由教育運動に沿ったものとなった。そこで東京高等師範学校附属小学校(現・筑波大学附属小学校)では、当時としては画期的であった、男女混合で行うカドリールやコチロン(オランダ語版)などのダンスを教え、運動会で実施した。しかし、学校体育界は1913年(大正2年)に永井道明がとりまとめ、スウェーデン体操を重視する「学校体操教授要目」に従うことが求められており、可児が活躍する場はなかった。逆に言えば、可児が活躍すると永井のとりまとめた「学校体操教授要目」の欠点を突くことになり、永井にとって不都合であった。 こうして普通体操・遊戯(スポーツ)派の可児・嘉納治五郎とスウェーデン体操派の永井の対立が発生し、1914年(大正3年)に永井が鳥取師範学校(現・鳥取大学)から東京高師出身者ではない三橋喜久雄を東京高師の助教授に引き入れると、可児を筆頭に普通体操・遊戯(スポーツ)派は猛反発した。可児の永井への反発は当時の新聞記事にも掲載されている。1919年(大正8年)5月18日付の読売新聞では、前日に開かれた大日本衛生協会の総会で、可児がスウェーデン体操は精神訓練や運動機能促進の点で欠けたところが多く、教師の号令に従って動くので個性を発揮する場がないと批判し、これを克服するために遊戯や競技を奨励する、と持論を展開したことが報じられている。続いて1920年(大正9年)6月20日付の読売新聞の記事には、永井の欧米体育視察費が可児の反対で東京高師から支給されず、永井は東京高師を休職して私費で視察に出ることになった、という記述がある。これに対し、可児が受け持つ「競技科」の授業を文科・理科の学生は全員でボイコットし、体育科の学生42人は授業を自習とする案を校長の三宅米吉に提案、2か月間の自習が認められたという。ただし、同件を報じた東京朝日新聞は、三宅校長が「問題は一部分の生徒の事で、大したことでもあるまい」と述べたと記している。 留学経験を十分に発揮する場を得られないまま助教授を続けていた可児は、1918年(大正7年)4月にようやく教授に昇任した。この頃、可児は東京高師徒歩部(現・筑波大学陸上競技部)の監督をしており、第1回箱根駅伝で東京高師を優勝に導いている。箱根駅伝で筑波大およびその前身校が優勝したのはこの1回のみであり、『新春スポーツスペシャル箱根駅伝』放映開始以降は出場すらできない状態が長く続いた。1921年(大正10年)9月、可児は高師の教授職を辞し、講師として教鞭をとることになった。可児の教授ポストには、教え子である大谷武一が着任した。結局、三橋は東京高師の派閥争いの犠牲になる形で離職を余儀なくされ、三橋の退職問題もあり永井も東京高師を去った。派閥争いに勝利した側の普通体操・遊戯(スポーツ)派も、1920年(大正9年)1月に嘉納が依願退職している。こうして永井・三橋・嘉納・可児が去った後の東京高師の体育系教師陣は、大谷武一、二宮文右衛門、宮下丑太郎、佐々木等、野口源三郎ら体育を専攻した東京高師出身者のみで占められることになった。後年、可児は当時を振り返って、普通体操・遊戯(スポーツ)派が勝ったことについて、「やはり正義は必ず勝ちますね」と語っている。 一方で講師に下りた1921年(大正10年)9月には、中京高等女学校(中京高女、現・至学館高等学校・至学館大学)で初めての体育・スポーツの専門教員として着任し、同校は「家事体操専攻科」を設置した。中京高女は可児を起点として体操教員を増やしていき、卒業生の多くは体操教師として巣立って行った。
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