留学以降とは? わかりやすく解説

留学以降(1915-1923)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/24 02:17 UTC 版)

可児徳」の記事における「留学以降(1915-1923)」の解説

1915年大正4年)、長年の夢であった留学許可下りるが、第一次世界大戦真っただ中という時勢のため、留学先ドイツではなくアメリカとなった3月日本出発し5月から10月までシカゴ大学エイモス・アロンゾ・スタッグ師事して競技スポーツ学んだ11月からはマサチューセッツ州スプリングフィールドYMCAカレッジ(現・スプリングフィールド大学英語版))に移って体育一般研究行い、翌1916年大正5年7月から9月までアメリカ各地体育の状況視察に出かけ、10月スプリングフィールド戻り研究続けた留学中ある日可児ボストン散歩中に見慣れない球技をする老人集団見かけた。可児老人らに競技法を教わり帰国後に学生広めた。これがバレーボールである。一部教師バレーボールをする学生指導する可児非難目を向けたが、学生らは教師叱られながらもバレー熱中したアメリカ留学許可期間は2年であったが、可児1917年大正6年10月30日までの延長申請しスウェーデン渡航する許可与えられた。ところがその後第一次世界大戦戦況激しさを増すばかりで、「危険につき渡欧の議見合わせよ」との電報日本から届きやむなく1917年大正6年11月26日日本へ帰国した。ヨーロッパ留学の夢を絶たれ可児であったが、折しも日本ではストックホルムオリンピック極東選手権競技大会といった国際大会への日本人出場通してスポーツへの関心高まっており、良き指導者求められる時勢となっており、アメリカで競技スポーツ学んだ可児はまさにうってつけの人であった。また留学経験は、留学前から競技遊戯スポーツ)に教育効果があると考えていた可児自信高めることとなり、可児体育観は大正自由教育運動沿ったものとなった。そこで東京高等師範学校附属小学校(現・筑波大学附属小学校)では、当時としては画期的であった男女混合で行うカドリールコチロンオランダ語版)などのダンス教え運動会実施した。しかし、学校体育界は1913年大正2年)に永井道明とりまとめスウェーデン体操重視する学校体操教授要目」に従うことが求められており、可児活躍する場はなかった。逆に言えば可児活躍する永井とりまとめた「学校体操教授要目」の欠点を突くことになり、永井にとって不都合であった。 こうして普通体操遊戯スポーツ)派の可児嘉納治五郎スウェーデン体操派の永井対立発生し1914年大正3年)に永井鳥取師範学校(現・鳥取大学)から東京高師出身者ではない三橋喜久雄を東京高師助教授引き入れると、可児筆頭に普通体操遊戯スポーツ)派は猛反発した。可児永井への反発当時新聞記事にも掲載されている。1919年大正8年5月18日付の読売新聞では、前日開かれた大日本衛生協会総会で、可児スウェーデン体操精神訓練運動機能促進の点で欠けたところが多く教師号令に従って動くので個性発揮する場がないと批判し、これを克服するために遊戯競技奨励する、と持論展開したことが報じられている。続いて1920年大正9年6月20日付の読売新聞記事には、永井欧米体育視察費が可児反対東京高師から支給されず、永井東京高師休職して私費視察に出ることになった、という記述がある。これに対し可児が受け持つ「競技科」の授業文科理科学生全員ボイコットし体育科学生42人は授業自習とする案を校長三宅米吉提案、2か月間の自習認められたという。ただし、同件を報じた東京朝日新聞は、三宅校長が「問題一部分生徒の事で、大したことでもあるまい」と述べた記している。 留学経験十分に発揮する場を得られないまま助教授続けていた可児は、1918年大正7年4月にようやく教授昇任したこの頃可児東京高師徒歩部(現・筑波大学陸上競技部)の監督をしており、第1回箱根駅伝東京高師優勝導いている。箱根駅伝筑波大およびその前身校が優勝したのはこの1回のみであり、『新春スポーツスペシャル箱根駅伝放映開始以降出場すらできない状態が長く続いた1921年大正10年9月可児高師教授職辞し講師として教鞭をとることになった可児教授ポストには、教え子である大谷武一着任した結局三橋東京高師派閥争い犠牲になる形で離職余儀なくされ、三橋退職問題もあり永井東京高師去った派閥争い勝利した側の普通体操遊戯スポーツ)派も、1920年大正9年1月嘉納依願退職している。こうして永井三橋嘉納可児去った後の東京高師体育教師陣は、大谷武一二宮右衛門宮下太郎佐々木等野口源三郎体育専攻した東京高師出身者のみで占められることになった後年可児当時振り返って、普通体操遊戯スポーツ)派が勝ったことについて、「やはり正義は必ず勝ちますね」と語っている。 一方で講師下りた1921年大正10年9月には、中京高等女学校中京高女、現・至学館高等学校至学館大学)で初めての体育スポーツ専門教員として着任し同校は「家事体操専攻科」を設置した中京高女可児起点として体操教員増やしていき、卒業生多く体操教師として巣立って行った

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