箱根駅伝
はこね‐えきでん【箱根駅伝】
東京箱根間往復大学駅伝競走
(箱根駅伝 から転送)
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東京箱根間往復大学駅伝競走(とうきょうはこねかんおうふくだいがくえきでんきょうそう)は、1920年に開始された、毎年1月2日と1月3日の2日間で開催する関東地方の大学駅伝競技会(地方大会)である。関東学生陸上競技連盟(以下「関東学連」という。)が主催し読売新聞社が共催する。箱根駅伝(はこねえきでん)とも俗称され広く知られる。実施は関東学連が定める「東京箱根間往復大学駅伝競走に関する内規」(以下「内規」という。)に定める[1]。
- 1 東京箱根間往復大学駅伝競走とは
- 2 東京箱根間往復大学駅伝競走の概要
箱根駅伝
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/19 05:02 UTC 版)
近年では、箱根駅伝の5区(往路の山登り区間。下る復路が6区)で複数年に渡り圧倒的な快走を見せた選手を指して、マスメディア(日本テレビや文化放送など、中継を担当する放送局)が比喩的に「山の神」と表現する場合がある。2007年の日本テレビの箱根駅伝中継において、往路の芦ノ湖中継担当であった河村亮が順天堂大学の今井正人がゴールする直前に「今、山の神、ここに降臨!その名は今井正人!」と実況したことが由来となっている。そこを起点として初代が今井正人、二代目が東洋大学の柏原竜二、三代目が青山学院大学の神野大地を指すようになった。スポーツライターの生島淳は『元祖・山の神』を1974年から4年連続で5区の区間賞を獲得した大久保初男(大東文化大学)であるとし、今井以前の「山の神」に上田誠仁や木下哲彦(金哲彦)、を挙げている。 詳細は「東京箱根間往復大学駅伝競走」を参照
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箱根駅伝
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「日本橋 (東京都中央区)」の記事における「箱根駅伝」の解説
1999年以降、箱根駅伝の第10区はコースを日本橋経由へ変更している。これは日本橋周辺の商工会からの要請であると同時に、東海道の始点である日本橋を通るということが箱根駅伝のクライマックスを飾るに相応しいと判断されたからである。
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箱根駅伝
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「明治大学体育会競走部」の記事における「箱根駅伝」の解説
箱根駅伝は、1919年に当時の部員らが唱えた「アメリカ大陸横断駅伝」創設のアイデアが転じて発足したものであり、東京高等師範学校などと共に同大会ルーツ校である。2021年まで62回出場しており、優勝回数は7回。戦後初開催の第23回大会、その2年後の第25回大会でそれぞれ総合優勝を果たしたものの、以後、総合優勝からは遠ざかっている。 戦前から1960年代にかけては本選の常連であったが、1980年代に数回出場した後1991年の第67回大会を最後に本戦出場を逃し続け、低迷期に入る。しかし2001年に日本大学OBの西弘美をコーチとして招聘すると、着実にチーム力も意識面も高まり、2005年の第81回大会で14年ぶりの本選出場を果たした。 石川卓哉、松本昂大、鎧坂哲哉らが活躍を見せた第85回大会では8位となり、43年ぶりにシード権を獲得した。2010年の第86回大会往路では4区小田原中継所までトップでタスキをつなぐ健闘を見せた。2012年の第88回大会では総合3位に入り、49年ぶりに総合3位以内に入った。2014年の第46回全日本大学駅伝で大学最高の2位に入ると、2015年の第91回大会では大六野秀畝、有村優樹、文元慧らを擁して64年ぶりの往路2位に入るなど黄金時代を築く。 しかし2016年の第92回大会では横手健、木村慎らを擁しながらも総合14位に終わり、8年ぶりにシード権を失う。続く、第93回大会では第65回大会以来28年ぶりに復路・鶴見中継所で繰り上げスタートを喫し、総合成績も過去最低タイの18位に終わる。そして、第94回大会予選会では10位東京国際大学と2分31秒差の13位に終わり、10年ぶりに予選会で敗退した。 2018年4月に、前年度からコーチとしてチームに携わっていた山本佑樹が監督に就任。第95回大会の予選会を5位で通過し2年ぶりの本選出場。節目の60回目の出場となった本選激しいシード権争いを展開するも、10区のブレーキで総合17位に終わった。第96回大会では阿部弘輝が7区で区間新記録を樹立するなど、総合6位で5年ぶりのシード権を獲得した。 「箱根駅伝の記録一覧#歴代本戦出場校一覧」も参照
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箱根駅伝
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初出場は戦前の第14回大会(1933年)であり、終戦直後に大学名が紅陵大学と改称されていた時期にも2度出場している。一度陸上競技部が自然消滅していたこともあり、50年代から60年代にかけて長らく出場していなかったが、部が再興された後の第46回大会(1970年)で15年振りに出場を果たす。第60回大会(1984年)の出場を最後に再び長らく不出場が続いたが、大東文化大学OBの米重修一を監督を招聘し強化に乗り出した結果、第73回大会(1997年)で14年振りに出場した。区間賞は3回獲得している。2000年代に入ってからは予選会で僅差の次点に泣くことも数度あった。2010年から亜細亜大学を初優勝に導いた岡田正裕を監督に招聘しており第87回大会(2011年)には最高順位となる7位を記録したほか、第95回大会にチーム史上初の連続シードを獲得した。第75回大会4区で大ブレーキに泣いた小林史和はその後奮起し、1500Mの日本記録を樹立している。練習拠点は調布市。2021年からは八王子に練習拠点を移す。たすきの色はオレンジ。ユニフォームはシャツがオレンジ。パンツが白。 「箱根駅伝の記録一覧#歴代本戦出場校一覧」も参照
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箱根駅伝
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/04 03:15 UTC 版)
2021年まで79回出場。優勝回数は4回。 チームの黎明期にはマラソン元世界記録保持者の池中康雄が活躍。東洋大学史上初の区間賞を第16回大会5区で獲得するなど気を吐いたが、チーム自体は下位争いの常連で低迷していた。第二次世界大戦終結後も下位に低迷し続けたが、1956年から箱根駅伝にシード制度が導入されるとシード校の常連となり、1960年の第36回大会では過去最高の3位に入るなど1960年代には最初のピークを迎える。 1970年代にはシード権争いの常連となり、ロードの東洋大や復路の東洋大という異名がつけられる。1986年の第62回大会以降はシード権争いにも絡むことなく下位に低迷し、1992年の第68回大会では予選落ちを喫し連続出場が44回で途切れてしまう。予選会の常連とも揶揄され、2001年の第77回大会・2002年の第78回大会では2年続けて予選落ちとなる。(後にリオデジャネイロオリンピック男子マラソン代表となる石川末廣はこの2大会の予選会でチームトップの成績を収めている。) 2002年に川嶋伸次が長距離部門の監督に就任すると復調の気配を見せ始め、北岡幸浩や北島寿典ら後に世界に羽ばたく選手を輩出、再びシード校の常連となった。しかし、2008年の12月に通学途中の部員が強制わいせつ行為で現行犯逮捕で逮捕され、出場すらも危ぶまれる事態となってしまう。この不祥事を受けて川嶋が監督辞任、前監督でコーチの佐藤尚が監督代行として再び指揮することとなった。最終的に関東学生陸上競技連盟による「箱根駅伝への出場を制限しない」という決定を受け、第85回大会に出場。柏原竜二の活躍もあって初の往路優勝を果たし、さらに復路でも優勝し初の総合優勝を達成した。出場回数60回を超える大学の中で唯一優勝に縁がなかったが、2009年の総合優勝によって初出場以来76年目、67回目で箱根駅伝史上最も遅い総合優勝を達成した。これを記念して、同学OGによる優勝の裏側を描いた本が発行されている。 2009年4月からはOBの酒井俊幸が長距離部門の監督に就任することが決まり、佐藤はコーチに戻った。翌年2010年の第86回大会でも総合優勝し2連覇を達成。2011年の第87回大会では早稲田大学に箱根駅伝史上最小となる21秒差の2位で敗れるも、2012年の第88回大会では史上5校目となる往路・復路・総合の全記録を更新する完全新記録優勝を成し遂げた。 チームスローガンは「その1秒をけずりだせ」であり、駅伝では選手同士で腕にスローガンを書きあうのが慣例である。 植木等は生前、毎年箱根駅伝終了直後に選手を激励しに来ており、「(東洋大学を)箱根駅伝で優勝させる会」の発起呼びかけ人・初代会長を務めるなど陸上競技部、特に箱根駅伝出場選手たちの有力な後援者として知られていた。しかし植木は2007年3月に死去、存命中に母校の総合優勝を見届けることはできなかった。 「箱根駅伝の記録一覧#歴代本戦出場校一覧」も参照
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「箱根駅伝」の例文・使い方・用例・文例
- 亜(あ)細(じ)亜(あ)大学,箱根駅伝で劇的な優勝を果たす
- 順(じゅん)天(てん)堂(どう)大学が箱根駅伝を制覇
- 第83回東京箱根間往復大学駅伝競走(箱根駅伝)が1月2日と3日に行われた。
- 昨年の箱根駅伝の優勝校である亜(あ)細(じ)亜(あ)大学は,初日は13位に終わったが,2日目に盛り返し,総合で10位になった。
- 上位10位でゴールしたチームが来年の箱根駅伝のシード校となる。
- 第85回東京箱(はこ)根(ね)間往復大学駅伝競走(箱根駅伝)が1月2日と3日に開催された。
- それは,同チームにとって67度目の挑戦で初となる箱根駅伝での優勝だった。
- 上位10位以内でゴールしたチームには翌年の箱根駅伝でシード権が与えられる。
- この映画は,毎年正月に行われている東京箱(はこ)根(ね)間往復大学駅伝競走 (箱根駅伝)への出場をめざす10人の大学生についての三(み)浦(うら)しをんの小説に基づいている。
- 彼は今,箱根駅伝で自分と一緒に走ってくれる学生を探している。
- ハイジがついに箱根駅伝に出たいという夢を明かすと,カケルはその考えに強く反対する。
- カケルは,箱根駅伝は本当に真剣なランナーのためのものだと言う。
- 彼らは本当に箱根駅伝に出場できるのだろうか。
- 第87回東京箱(はこ)根(ね)間往復大学駅伝競走(箱根駅伝)が1月2日と3日に行われた。
- それは同チームにとって18年ぶり13度目の箱根駅伝の優勝だった。
- 東洋大は箱根駅伝3連覇を逃した。
- 箱根駅伝過去2大会で,柏原選手は5区の区間新記録を更新した。
- 彼は自身の区間記録を破ることはできなかったが,3年連続で箱根駅伝5区の1位となった。
- 正月休みの人気イベントとなっている毎年恒例の東京箱(はこ)根(ね)間往復大学駅伝競走(箱根駅伝)が1月2日と3日に行われた。
- それは東洋大にとって箱根駅伝での2年ぶり3度目の優勝だった。
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