野口源三郎とは? わかりやすく解説

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野口源三郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/26 04:15 UTC 版)

野口 源三郎(のぐち げんざぶろう、1888年明治21年)8月24日 - 1967年昭和42年)3月16日)は、日本陸上競技選手・指導者体育学者東京教育大学東京高等師範学校埼玉大学名誉教授[7]埼玉県榛沢郡横瀬村(現・深谷市)の出身であり、埼玉県初のオリンピック選手である[8]


注釈

  1. ^ 野口八十郎の養子となるまでに、源三郎は何度も里子に出されており、不憫に思った八十郎が源三郎を引き取ったのである[18]
  2. ^ 当時の尋常小学校は4年制であった[18]
  3. ^ 単なる学生の間の遊びではなく、夜中に突如寮生が集められ、教師から怪談を聞かされた後、くじで選ばれた者が月明りだけを頼りに墓地へ行ってくるという抜き打ちの学校行事であった[4]
  4. ^ 小学校教師を休職という形で進学している[31]
  5. ^ 当時、体育(教科名としては「体操」)の教師は他の教科の教師よりも地位が低く、野口が体育教師の道に進むことに難色を示す人もいた[26]
  6. ^ 1919年(大正8年)に金栗四三と石貫鐡心の共訳で『オリンピック競技法』として日本語訳書が出版され、緒言には野口から援助を受けた旨が記されている[40]。また1922年(大正12年)にも原栄一の訳により『競技練習法』の題で出版されている[40]。こちらは可児徳が校閲している[40]
  7. ^ スケートは冬季に生徒の体力が急速に衰える対策として導入し、松本城を使って練習させた[41]。堀でのスケート練習は当初松本市役所から「コイが育たない」との理由で却下されたが、「コイと人間のどちらが大事か」と熱弁し許可を得た[41]
  8. ^ 優勝候補はフィリピン中国の選手であり、野口の勝利は予想されていなかった[39]
  9. ^ 「学校体操教授要目」は1913年(大正2年)に東京高師教授の永井道明が中心になって取りまとめたもので、永井が欧米留学を通して学んだスウェーデン体操が主に採用された[44]。永井はスポーツを「競争遊戯」と位置付けることでスウェーデン体操の枠内で扱えると考えていたが[45]、1918年(大正7年)頃からほころびが顕著となってきた[46]。その背後には日本でのスポーツの隆盛がある[46]。東京高師内部では永井ら「スウェーデン体操派」と嘉納・可児徳ら「普通体操・遊戯(スポーツ)派」の対立・派閥争いが当時勃発していた[47]
  10. ^ 大日本体育協会はフィールド競技での日本人の勝利を期待しておらず、複数種目をこなせる野口を研究見学を主目的に派遣した[49]。多種目をこなす十種競技の特性上、常に競技場内で間近に各国の一流選手を観察することができ、この時のメモと記録ノートが後進育成に役立った[27]
  11. ^ 日本選手団一行とともにニューヨークに2か月ほど滞在し、陸上競技の技術を高めると同時に、紳士たるマナーエチケットを身に付けた[51]。選手団の世話は当時三井物産ニューヨーク支店に勤務していた沢田一郎が務めた[52]
  12. ^ 野口は沢田一郎とともに競技場の建設段階から関わっている[52]。選手権当日はマラソンでゴール目前に倒れた長谷川照治の目の前に日の丸を差し出し、旗を振りながら長谷川をゴールまで導き、長谷川は2着となった[53]。この光景を見た織田幹雄は感激し、野口に対する印象として深く刻まれたという[53]
  13. ^ この時の印税は莫大なものであったが、全額体協の収入に充てられた[41]。これではあまりに気の毒だということで、数年後体協から野口に版権が返還されたという逸話がある[41]。読者には人見絹枝がおり、二階堂体操塾時代の人見はこの本を手に練習に励んだ[55]
  14. ^ 退任の背景には「十三校問題」がある[54]。十三校問題とは、パリオリンピックでの日本代表選手と視察員の選定に際して早稲田大学慶應義塾大学など私立大学13校が疑義を訴え、野口ら体協役員の退任を求めたものである[54]。これを契機に体協は組織体制を改め、競技別の団体が設立されることになり、全日本陸上競技連盟が発足した[54]
  15. ^ 野口家では全く疎開していなかった[68]
  16. ^ 山本正雄のように統合を受け入れられずに退職した東京体育専門学校の教師もいた[69]
  17. ^ 当時の選手は、フィールドがトウモロコシ畑と化した競技場のトラックで走っている状況であった[61]
  18. ^ 東京体育専門学校の校長職は東京教育大学体育学部長と兼任する規定であったため、自動的に校長となった[74]
  19. ^ 定年制度は東京教育大になってから新設されたものであった[5]。定年により、学部長・校長としての任期が約半年しかないことは事前に分かっていたことであったが、教授会は長年体育界を歩んで来た野口に「最後の花道」として学部長・校長職を充てたのである[75]
  20. ^ 順天堂大体育学部の創設に当たっては、野口が施設整備から教員人事まで幅広く担当し、「生みの親」の1人に挙げられている[76]。順天堂大での勤務は週1日で、ほとんどの日は埼玉大に出勤していた[2]
  21. ^ 当時の浦和市長は松本中の教え子であり、埼玉県知事とも親交があったことから、浦和市・埼玉県からの信頼は厚かった[77]
  22. ^ リハビリテーションで歩行練習をこなし、「屋上を2000 m歩いた」と自慢していたが、これがかえって病状を悪化させ、足の自由が利かなくなってしまった[41]。この頃、野口は順天堂大学にリハビリテーション学科の新設を提案しており、「まさか自分がリハビリテーションを体験しようとは思わなかった」と笑いながら話した[16]。その後回復し9月に療養のため伊豆長岡町に移りリハビリを続け[41]10月23日に病状の悪化により順天堂医院に戻った[16]。医師からは心臓の強さを当時現役選手だった澤木啓祐と同じくらい強いと言われ、見舞客に自慢していた[82]
  23. ^ 奈良岡とは研究協力者の奈良岡健三のことである[37]
  24. ^ 野口は順天堂大学の定年を過ぎており、1964年(昭和39年)頃より「後進に道を譲りたい」と表明していたが、大学側は特別待遇で野口を慰留し続けていた[57]。死の数日前に野口は正式に辞表を提出し、大学は野口の功績に報いて大学葬を挙行した[57]
  25. ^ 気になり出すきっかけは、地理の先生が「閏年が発生する原因を調べよ」という宿題を出した際に正しく答えられたのが野口とその女子の2人だけだったことである[92]
  26. ^ 名字は変わっていたが、下の名前が同じだったため誰だか分かったという[92]
  27. ^ 原文はカタカナローマ字が交ざったもので陸上競技の関係者には判読ができなかったが、妻はすらすらと解読したという[97]
  28. ^ 東京高師に入学すると官費が支給され、将来は中等学校以上の教員に着任することが保障されていたことから、経済的に恵まれない家庭の子弟が多く、野口のような境遇の人が多かった[98]
  29. ^ 記念金は自身の居室の建設費に充当し、入室するときは毎回、教え子への感謝を込めて一礼していた[57]
  30. ^ アントワープオリンピックでは途中棄権(DNF)で記録なし0点となっている[103]
  31. ^ 1922年(大正11年)4月創刊[54]。スポーツ全般を対象としていたが、本文の3分の1を陸上競技が占め、織田幹雄や南部忠平も愛読していた[54]
  32. ^ 1922年(大正11年)3月に創刊し、1940年(昭和15年)まで発行された[54]。東京高師・東京文理大の陸上競技部員の寄稿も多く、同部の歴史を知ることができる[54]

出典

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