性格・交友
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/27 03:35 UTC 版)
宴会などでどれだけ夜遅くなろうと、必ず翌朝4時に起床し、読書や研究を始め、午前9時には予定した1日の仕事をすべて片付けてしまった。本人は「これが積もれば私のような凡人でも何とかなる」と書いている。もっとも夜はめっぽう弱く、20時には生返事になり、21時にはいびきをかき始めるという状態であった。 服装へのこだわりが強く、身に付けるものは下着も含めてすべて自分で選び、妻にも口出しさせなかったという。これは単なるおしゃれのためではなく、体育指導者は青年が憧れるような存在でなくてはならない、というポリシーによるものであった。 非常に几帳面な性格で、大正時代から死の直前まで毎日欠かさず日記を付け、日々の雑事や金銭のやり取りのみならず、その日にあった果物の1個・菓子の1個に至るまで事細かに記していた。この日記は容態が悪化するまで英語で付けていた。そのうち1947年(昭和22年)12月20日から1957年(昭和37年)12月31日までと1966年(昭和41年)1月1日から死の6日前の1967年(昭和42年)3月10日までの計12冊の日記帳が死後に野口の長男から筑波大学に寄贈され、体育スポーツ資料室が保管している。死期を悟った野口は「私ほど幸福なものは他にはありません」と浅川正一に書き残している。また複数の新聞を読んでスクラップブックを作っていた。 野口は知識豊富で交友の幅が広く、年を経るごとに交友と社会活動の幅を広げていった。埼玉県師範学校では「SH会」、松本中学校では「三源会」、アントワープオリンピックでは「白黎会」と、親しい間柄で多くの会を結成していた。野口の人格は少年時代に修練した剣道と、東京高師以来の嘉納治五郎からの薫陶によって形成された。また学生と教師を交互に繰り返しながらステップアップしていった苦労人であることが、他者への細やかな配慮につながった。見た目は厳格そうであったが、話してみると親しみやすい人物であり、若い頃の苦労話や武勇伝を語ることで親近感をわかせた。また他人を引きずり落としたり陥れるような小手先の細工を使うようなことはなく、意見が対立した時は相手の言い分をよく聞き建設的で協調的な態度を取った。沢田一郎は、良い意味で野口に東京高師出身者らしさが全然なかったと評している。 多くの教え子から慕われ、東京教育大の教え子は退官時に記念のお金を贈り、埼玉大の教え子は野口の胸像を大学構内に立てた。胸像の除幕式では、像建立のお礼とともに初めて公の場で妻にお礼を述べ、出席者一同を感動させたという。なお、記念金は自身の居室の建設費に充当し、入室するときは毎回、教え子への感謝を込めて一礼していた。
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