学生と教師
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 06:15 UTC 版)
「ベドルジハ・スメタナ」の記事における「学生と教師」の解説
スメタナが学校を卒業するまでの間に、父・フランチシェックの財産は少なくなっていた。フランチシェックは、この頃にはベドルジハが音楽家の道を追うことに賛成していたものの、金銭的な支援を行うことができなくなっていた。1843年8月、スメタナは僅か20ガルデンを持ってプラハに移るが、短期間で成功する展望は無かった。正式な音楽教育を完全に受けていなかったことから、スメタナは教師を必要とし、前述のカテジナ・コラージョヴァーの母から、カテジナがちょうど在籍しているプラハ音楽大学の長であるヨゼフ・プロクシュを紹介される。プロクシュは、当時としては最新の指導法を用いており、ベートーヴェンやショパン、ベルリオーズ、更にリストのライプツィヒサークルの楽曲を用いていた。1844年1月、プロクシュはスメタナを生徒にとることに同意し、同時に貴族であるトゥーン卿の家族の音楽教師の職を確保し、スメタナの経済的困窮を救おうとした。 それからの3年間、スメタナはトゥーン家の子供たちのピアノ教育を行いながらプロクシュの下で理論と作曲法を学んだ。この期間に彼が作曲した楽曲には、歌曲、ダンス、バガテル、即興曲、ピアノソナタト短調がある。1846年、スメタナはベルリオーズがプラハで行ったコンサートに出席しており、確定はしていないものの、プロクシュによってレセプションでこのフランスのマエストロ(ベルリオーズ)に面会したとされる。またトゥーン卿の家で、ロベルトとクララのシューマン夫妻に面会しており、この時自作のピアノソナタト短調を夫妻に見せている。しかし、その曲はあまりにもベルリオーズからの影響が強すぎるとして、夫妻から認められることはなかった。このような日々の中で、カテジナとの関係がより親密になる。1847年6月、スメタナはトゥーン家の音楽教師の職を辞した上で、後任にカテジナを推薦した。彼はその時、西ボヘミアへの演奏旅行に出発し、コンサート・ピアニストとしての名声を確立することを望んでいた。
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