学生ながら全日本チャンピオン
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/20 01:17 UTC 版)
「高橋晴邦」の記事における「学生ながら全日本チャンピオン」の解説
子供の頃から模型やメカニカルなものが好きな一方、剣道・柔道・水泳、長じてボウリングやビリヤードに熱中し、スポーツ万能であった。後に法政大学工学部に進学し、卒業論文のテーマで『人間工学的見地から見た自動車シートの安全性』を発表している。大学2年の1966年(昭和41年)4月、船橋サーキットでの第2回ゴールデンビーチトロフィーにフェアレディ1500で初参戦し、総合5位(クラス2位)になった。しかし父親の反対に遭い、以後一年間レースには出場しなかった。1年後、父親から条件付きでレース参戦が許される。その条件とは「大学は留年せずに卒業する」、「やる以上は日本一になる」、「30歳までに辞める」という3つであった。1967年(昭和42年)はホンダ・S800で数回参戦し、年内にTMSC(トヨタ・モータースポーツ・クラブ)に加入する。1968年(昭和43年)はTMSCの若手ドライバーとしてトヨタ・カローラを操り、全日本ドライバー選手権T-Ⅰ(ツーリングカー1,300 cc 以下)部門で9戦中7勝してチャンピオンとなる。ミニクーパーSを操る菅原義正とのチャンピオン争いが激化したシーズン後半戦には、トヨタ自販ワークス仕様車の貸与も受けるようになる。当時は、将来の目標としてF1ドライバーになることを夢見ており、ヨーロッパのレーシングスクール宛に入校希望の手紙を書いたこともあったが、トヨタのワークスドライバーを選択する。
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