帰京・五輪・現役引退(1918-1920)
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「野口源三郎」の記事における「帰京・五輪・現役引退(1918-1920)」の解説
1918年(大正7年)4月1日、大日本体育協会の常務委員に就任したため、東京に戻った。その背景にはスウェーデン体操を中心に据えた「学校体操教授要目」に対する嘉納治五郎の不満があり、「学校体操教授要目」にスポーツを取り入れようと画策し、その第一に陸上競技を採用しようとしてその専門家として野口を呼び寄せたのであった。同年、金栗四三らと協議して全国学生陸上競技連合(現・関東学生陸上競技連盟)を設立し、翌1919年(大正8年)4月1日には東京高師体育科講師嘱託を兼任し、教師として母校に戻った。同年10月、埼玉県の小学校の運動会に審判として呼ばれた際に、車中で金栗・沢田英一(明治大学体育会競走部)と話し合い、翌1920年(大正9年)2月に第1回東京箱根間往復大学駅伝競走(箱根駅伝)を「四大専門学校対抗駅伝競走」として開催し、母校の東京高師が優勝した。この年、東京高師体育科講師となる。 1919年(大正8年)4月には翌年のアントワープオリンピックの予選会が開催され、東京第1次予選会に出場して十種競技で優勝、第2次予選会(駒場・東大農学部競技場)でも十種競技で優勝し、十種競技の日本代表に選出され、フィールド競技指導者養成の意味を込めて主将に任命された。同年8月の日本選手権では走幅跳で6m08を跳び2位になった。1920年(大正9年)のアントワープオリンピックでは開会式で旗手を務め、8月20日・21日に十種競技が行われ、当初29人出場したものの寒さと降雨で脱落者が相次ぎ、野口は右足腱痛に耐えながら最後まで競技を続行したが12位と振るわなかった。この時の記録は3669.630点で、金メダルを獲得したヘルゲ・ラヴランド(英語版、ノルウェー語版)(6803.355点)の半分ほどの点数であった。なお野口の登録名はGensabulo Noguchiであった。 野口ら日本代表の面々は、この闘いを永遠に忘れず、日本のスポーツ発展に尽くすことを誓い、「白黎会」を結成した。野口のアントワープオリンピック出場は、欧米体育の視察を兼ねており、往路は5月に横浜港を出港してアメリカ合衆国を横断してイギリスを経てベルギー入りし、復路はスウェーデン、ドイツ、フランス等を巡って陸上競技の専門書などを購入し、11月に日本に帰国した。総日数176日の長旅であった。アントワープオリンピックをもって野口の競技者生活は終止符となり、以後は指導者に徹するようになる。
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