帰京・五輪・現役引退とは? わかりやすく解説

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帰京・五輪・現役引退(1918-1920)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/27 03:35 UTC 版)

野口源三郎」の記事における「帰京・五輪・現役引退(1918-1920)」の解説

1918年大正7年4月1日大日本体育協会常務委員就任したため、東京戻ったその背景にはスウェーデン体操中心に据えた学校体操教授要目」に対す嘉納治五郎の不満があり、「学校体操教授要目」にスポーツ取り入れよう画策し、その第一に陸上競技採用しようとしてその専門家として野口呼び寄せたであった同年金栗四三らと協議して全国学生陸上競技連合(現・関東学生陸上競技連盟)を設立し、翌1919年大正8年4月1日には東京高師体育科講師嘱託兼任し教師として母校戻った同年10月埼玉県小学校運動会審判として呼ばれた際に、車中で金栗・沢英一明治大学体育会競走部)と話し合い、翌1920年大正9年2月第1回東京箱根間往復大学駅伝競走箱根駅伝)を「四大専門学校対抗駅伝競走」として開催し母校東京高師優勝したこの年東京高師体育科講師となる。 1919年大正8年4月には翌年アントワープオリンピック予選会開催され東京第1次予選会出場して十種競技優勝第2次予選会駒場・東大農学部競技場)でも十種競技優勝し十種競技日本代表選出されフィールド競技指導者養成の意味込めて主将任命された。同年8月日本選手権では走幅跳で6m08を跳び2位になった1920年大正9年)のアントワープオリンピックでは開会式旗手務め8月20日21日十種競技が行われ、当初29人出したもの寒さ降雨脱落者が相次ぎ野口右足腱痛に耐えながら最後まで競技続行した12位と振るわなかった。この時の記録は3669.630点で、金メダル獲得したヘルゲ・ラヴランド(英語版ノルウェー語版)(6803.355点)の半分ほどの点数であった。なお野口登録名はGensabulo Noguchiであった野口日本代表面々は、この闘い永遠に忘れず日本のスポーツ発展尽くすことを誓い、「白黎会」を結成した野口アントワープオリンピック出場は、欧米体育視察兼ねており、往路5月横浜港出港してアメリカ合衆国横断してイギリス経てベルギー入りし、復路スウェーデンドイツ、フランス等を巡って陸上競技専門書などを購入し11月日本に帰国した。総日数176日の長旅であったアントワープオリンピックをもって野口競技者生活は終止符となり、以後指導者に徹するうになる

※この「帰京・五輪・現役引退(1918-1920)」の解説は、「野口源三郎」の解説の一部です。
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