帰仏後
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住友友親と広瀬の見送りを受け、ラロックは12月14日に神戸港を発ち帰仏した。翌1876年にはスペインで働き、通訳を務めていた塩野内之助が鉱山学を学ぶため4月11日に渡仏してラロックに師事している。指導方法に対する不満などから、翌年に塩野は独断でサン・テティエンヌ鉱山学校に入学して両者は一時決別したが、塩野は卒業後にラロックを訪ねて肖像写真を受け取っている。ラロックは1877年に家族とともにパリ14区に引越し、1881年にはさらに15区に移っている。この間トゥールーズで教師を務めるなどし、1883年4月6日、アリエージュ県リュードペルポー(Rieux-de-Pelleport)に所有する別邸で逝去した。
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帰仏後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/15 18:12 UTC 版)
1882年にはアメリカの商社・ラッセル商会に招聘され、ブリューナは支配人として同社の上海での製糸工場(寶昌糸廠)建設に携わった。翌々年、フランス中の商業会議所から調査事項のリクエストを受けて、リヨン商業会議所からトンキンへ派遣された。フランスの繭は年間生産量を1840年と1850年を比べてほぼ2倍の2.5万トンほどに増えていたが、病気をきっかけに1856年0.8万トンに激減し、予防法が普及しても19世紀の間は水準を回復することがなかった。1860年までに、リヨンの絹検査所へ搬入された絹の約1/3がベンガル・中国・日本産となった。しかし当時極東に進出していたヨーロッパ系銀行はイギリスのものばかりで、それらがフラン振出手形をすべて拒否した。仕方なく輸入絹の大半は現物がP&Oなどに運ばれてロンドンを経由し、代金にはその運賃がふくまれた。 1890年にラッセル商会が破産したため、かつての同僚らとともに上海でポール・ブリューナ商会を設立し、製糸代理店を含めた貿易業務全般を扱った。会社の経営は順調で、1906年に設立時のメンバーであるハンターらに経営権を譲渡し、この際に社名がバラード・ハンター商会に改名されている。 1906年(明治39年)に上海からフランスに帰る途中で日本を訪れ、8月2日に横浜に上陸した。数日間を横浜で過ごした後、8月20日まで富岡製糸場など各地を回って横浜に戻り、数日後には箱根を訪れて富士屋ホテルに1ヶ月ほど滞在している。9月23日に妻とともにフランス郵船・コレア号で日本を離れた。1908年5月7日、パリの自宅、エミール・オージエ大通り48番地で逝去。葬儀は5月9日正午から、パッシーのノートルダム・ド・グラス教会で行なわれ、ペール・ラシェーズ墓地の義父の墓に埋葬された。
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