帰京
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/28 06:48 UTC 版)
寛文11年(1671年)以前に京都三条大橋東詰に移り、高瀬梅盛に俳諧を学び、後に中島随流に師事した。寛文13年(1673年)随流が編纂した『うぐひす笛』春上に2句入集した。延宝5年(1677年)師尺五の父貞徳25回忌に当たり刊行された『貞徳居士追福千首』にも「一信」として和歌を寄せる。 延宝8年(1680年)3月随流の談林派論難書『俳諧猿黐(さるとりもち)』に「随有軒木端坊」として跋文を寄せ、本文に「此神詠の秘訣を貞徳より伝へし者は、加藤般斎・広沢長好・山本西武・滝川随有子のみ」と言及される。このことで、後に元禄7年(1694年)跋『あらむつかし』腹魚の巻で「随流といふ者、人をたぶらかす事の上手也と聞侍る。まことにおもへば、昌三(尺五)弟子とやらんかける随有といふ儒者も、たぶらかされて『さるとりもち』などいふ、わけもなき事をかきて、世間にわらはれ侍る。」と反撃された。 天和2年(1682年)朝鮮通信使が江戸から帰る途中、9月29日京都本圀寺に滞在中の洪滄浪・李盤谷等を尋ね、筆談により漢詩を交わし、12月すかさず『桑韓筆語唱和集』上巻として刊行させた。 元禄期には再び尺五堂付近に住み、『元禄覚書』では住所を「高倉通」、元禄4年(1691年)3月多田兵部義元著『多田五代記』に寄せた跋文では「銅駄城下」とする。没年は不明だが、元禄14年(1701年)広沢学元重成が貝原益軒に宛てた書簡が昌楽の死を伝える。
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