帰京後、没後とは? わかりやすく解説

帰京後、没後

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/31 04:59 UTC 版)

中島敦」の記事における「帰京後、没後」の解説

帰国の約1か月前、1942年昭和17年2月号の『文學界』に、「山月記」と「文字禍」が「古譚」と題して掲載され、「日本アナトール・フランス」「芥川龍之介再来」などと言われていた。深田久弥掲載知らせ手紙送ったが、同年3月17日パラオより帰国した敦が『文學界掲載のことを知ったのは、東京戻ったあとであった深田は、自分原稿に目を通す時期半年遅れたために「俊英才能文壇芽を出す時期を私がおくらせたとも言える」と自責の念かられた一高帝大時代と敦のことを知っていた同学出身者中村光夫は「山月記」と「文字禍」を目にし、多く友人達学生時代青春の夢なくした中で「ひとり黙々と十年の間執拗に昔のままの清純さ文学の夢を育んで来た」敦の心情思いを馳せつつ励ますような作品評を書いた帰国後の敦は喘息気管支カタルで、父親妻子の住む世田谷の家で療養することとなった当時世田谷周囲田畑広がり、冷たいおろし風が吹く喘息持ちにはよくない土地で、敦は住み慣れた横浜への転居希望した実現しなかった。 続いてスティーヴンソン主人公にした長編「ツシタラの死」が編集者要請で「光と風と夢――五河荘日記抄」と題名変更し短縮した上で文學界5月号に発表されると、昭和17年上半期芥川賞候補となった同作品は石塚友二横光利一弟子)の「松風とともに最後まで選考争ったが、室生犀星川端康成2人選考委員高く評価したのみで、ほかの選考委員宇野浩二などからの支持得られ落選した石塚作品も)。 とはいえ光と風と夢」の掲載後すぐに、筑摩書房中央公論社今日問題社の3社から中島作品集出版したいという申し出があった。5月小康状態になった敦の元へ筑摩書房古田晁中央公論社杉森久英訪問があり、作品集出版決まった中央公論社には第三創作集(「弟子」を含む予定で)の約束をする)。7月15日第一創作集『光と風と夢』が出版され、その印税妻子着物帯留めなどを買って、妻の郷里訪ねた作家として立つことを決意した敦は、8月南洋庁辞表提出し9月に正式辞令が下り)、専業作家生活入った10月末ころまでには「李陵」の原稿題名決っていない)を書き上げた11月には、パラオ題材にした作品などを含む第二創作集『南島譚』が出版されるも、同月持病気管支喘息悪化服薬影響心臓もかなり衰弱し世田谷岡田医院入院し12月4日午前6時に同院で死去した33歳没。 涙をためながら「書きたい書きたい」「俺の頭の中のものを、みんな吐き出してしまひたい」と言ったのが最期の言葉だったと伝えられている。12月4日奇しくもスティーヴンソンサモア埋葬された日であったという。中島家神道であったため、6日午後2時から神式の葬儀が行われ、多摩墓地埋葬された。なお、敦は亡くなる前に戸籍祖父郷里埼玉県久喜市移していた。 未発表であった名人伝「弟子」などの作品遺作として没後発表され、「李陵」は1943年昭和18年7月号の『文學界』に掲載された。敦の死の後、夫人から手渡され題名定まっていない遺作原稿(「李陵」)を読了した時、深田は「あたりがシーンとしたくらい感動」したという。 死後出版された全3巻の『中島敦全集』は1948年昭和23年10月から1949年昭和24年6月にかけて筑摩書房から刊行され毎日出版文化賞受賞した

※この「帰京後、没後」の解説は、「中島敦」の解説の一部です。
「帰京後、没後」を含む「中島敦」の記事については、「中島敦」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「帰京後、没後」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「帰京後、没後」の関連用語

1
2% |||||

帰京後、没後のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



帰京後、没後のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの中島敦 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS