帰休兵制度
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/10 04:22 UTC 版)
有事における戦力を確保しつつ、地域経済と国民の負担、および税収への影響を最小限に抑えるために設けられた。平時において、徴兵された兵士は最初の2年間の兵役を終えると、そのあとは1年のうち2か月だけ連隊に戻っていればよく、それ以外の10か月は村や都市に戻って働くことを許された。これを帰休兵制度と呼ぶ。この制度が導入された初めのころは1年のうち3か月は連隊にいることを求め、かつ、帰休する期間はあえて複数回に分けて1年のうち何度も連隊に復帰させた。逃亡を恐れたためであるが、制度が定着することによって兵士への信用が増し、そのようなことはなくなった。 帰休兵は、自身が兵士であることを示すために、公共の場 (教会の礼拝など) では制服の着用が義務づけられていた。きちんと義務を果たしているかどうかを一目でわかるようにするためである。また帰休兵についての裁判権は、基本的に、その兵が農民として所属する土地の領主ではなく、兵士として所属する連隊にあった。結婚、移住の許可についても同様である。これはプロイセンにおける伝統的な貴族-農民関係に重要な変化をもたらしたと考えられているが、これについては後述する。 帰休兵制度は、徴兵された者だけではなく、一部の、外国出身の傭兵に対しても適用された。彼らは部隊の駐屯する都市の労働力に加わり、向上心のある者は職人としての技量を身につけて除隊後もプロイセンの発展に貢献した。
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