徴兵、区割り制度
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/10 04:22 UTC 版)
各連隊ごとに一定の地域を割り当て、そのなかで徴兵を行うようにしたものである。カントン制度の中核をなす。区割りそれ自体は、王の即位に前後してスペイン継承戦争が、またしばらくして大北方戦争が終結したことにより、それまでの戦争続きの数十年間、長く1か所にとどまることがなかった部隊に定まった駐屯地と言える場所ができたことから自然発生的に生じたものを追認した場合が多い。 区割りの中ではさらに中隊ごとに地域が小さく分けられ、可能な限り割り振られた地域の内で必要な人員を徴募することが求められた。連隊長や中隊長はその部隊の人員充足率について責任を負わせられていたために、しばしば同じ軍隊の中で兵士の取り合いが起こった。これを抑止するのが区割りの目的のひとつである。 徴兵された兵士をカントニスト (Kantonist) と呼ぶ。徴兵対象者は農村および都市の若い男子で、とくに貧しい農村出身者が実際に徴兵されるうちの多数を占めた。貴族はもちろんであるが、一定以上の資産保持者 (高額納税者) 、土地を所有する農民の長男 (後継ぎ) 、牧師、教師、医者とその学生、国が重要とみなしている分野で活動する職人、商人、などは除外された。また、ベルリンなどの大都市は都市がまるごと徴兵を免れる特権を有していた。これはその税収と産業による物品供給に優先が置かれていたからであるが、このために王はベルリンを内心嫌っていたという。 徴兵者が連隊から逃亡して村に逃げ帰った場合、その村が彼を匿えば見せしめのために村全体が罰を受けた。また逃亡兵の穴埋めは、必ずその出身の村から代わりの者を徴兵することによって行われた。このように、逃亡兵は故郷へ逃れてもすぐに当局に突き出されるように仕向けられていた。 連隊に地域性が生まれ、そこへ同じ土地の出身者がたくさん集まって所属したことは連隊の士気と団結に優れた効果をもたらした。また、連隊と地域住民との関係が向上した。また、実際に徴兵された者はずっと拘束されていたのではなくて、次の帰休兵制度によって、毎年農村の畑と都市の駐屯地を往復していた。
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