学校体操教授要目
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/17 06:53 UTC 版)
『学校体操教授要目』は1909年(明治42年)に留学から帰国した道明が中心となってとりまとめ、1913年(大正2年)に発布されたものである。教育現場で混乱していた諸体操の整理・統一を目的とし、現場での実行案として提示したものであるため、体操の理想案を示したものでも、新たな体操の姿を示したものでもない。スウェーデン体操に主要部を依拠しているものの、道明は日本の学校生徒を本位として要目を策定したので、外国のどの国の方式でもなく、強いて言うなら日本の学校生徒式だと述べた。道明が主張する『学校体操教授要目』の要点は以下の通りである。 スウェーデン体操の採用 - 「体操」と称されるものは大部分をスウェーデン体操の考え方に依拠した。ただし新しいものはほとんど加えず、懸垂・跳躍は従前の軍隊体操から採るなど、すぐ容易に実施できるようにした。 教練の統一 - 従前に準備・秩序・隊列・兵式などさまざまに呼ばれていたものを「教練」と名付け、第一に歩兵操典に依拠することとした。 遊戯の拡張 - 従前に行われてきた遊戯はほぼ踏襲し、その中に競技を「競争遊戯」として、ダンスを「行進を主とする遊戯」として含ませることとした。 柔道・剣道の正課への採用 - 柔道・剣道を体操科に加えるかどうかは議論になっていなかったが、道明の「英断」によって正課に加えられた。これは道明が明治維新後に柔道・剣道が衰退したことを不思議に思っていたことと、すでに柔道・剣道が学校で広く行われていたことによるものと本人は述べている。なお、道明は「撃剣」を「剣道」に改称することを主張した。その理由として、目的にかなった名称とすべきであること、撃剣が技術偏重の危惧があったこと、柔術が柔道に改称して近代化に成功したことの3点を挙げたが、内実は東京高師体操科の責任者として、高師が使っている「剣道」の名称を主張する必要があったことによる。 『学校体操教授要目』に見られる道明の体育観をまとめると以下のようになる。この中で現代に通じる重要な点は、学校体育をフィジカルトレーニングと結合させたことである。 学校体育の目的は「服従精神の涵養」 - 教師と生徒の関係を命令と服従の関係と位置付け、意志の訓練と規律を強調した。 個人の体力・意志の国家への結合 - 個人の体力低下は国家の危機であり、国家に個人は従属すべきである。 訓練のためのスウェーデン体操 - スウェーデン体操は個人の体力・意志力を訓練する上で最も合理的で、遊戯も体操と同一原理で考えられる。 道明の『学校体操教授要目』は1918年(大正7年)以降、限界が見え始めた。教師と生徒の関係を命令と服従の関係でしか捉えなかったこと、スポーツが隆盛したこと、大谷武一らによる指導法の改善が進んだことが主な要因である。このため『学校体操教授要目』は2度改正され、3度目の改正時に体操科から「体錬科」に科目名を変更した。そして第二次世界大戦後の1947年(昭和22年)に「学校体育指導要綱」となり、「学習指導要領体育編」へとつながっていく。しかしこれらの改正作業に道明は関わっておらず、議論ばかりしていないでまず実行し、実行してみて悪いところがあったときに初めて内容を改善すべきだと主張した。
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