体操の統一と派閥争いとは? わかりやすく解説

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体操の統一と派閥争い(1909-1923)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/17 06:53 UTC 版)

永井道明」の記事における「体操の統一と派閥争い(1909-1923)」の解説

ロンドンオリンピックに向かう途中1908年明治41年7月10日東京高等師範学校東京女子高等師範学校東京女高師、現・お茶の水女子大学)の教授職拝命していたことから、帰国直ちにその任に就いた1週間のうち月・水金曜東京高師で、火・木・土曜東京女高師教師をする傍ら1909年明治42年3月13日には体操遊戯取調委員に、3月23日には東京高師生徒監に任命された。道明生徒時代金栗四三東京高師入学し大谷武一道明着任知って体育学の道へ進むことを決めた帰国早々留学目的であった体操科の統一に向け道明動き出し道明とりまとめ学校体操統一案は「学校体操教授要目」として1913年大正2年1月28日文部省訓令第1号発布された。また同年学校体操要義』を著し極めて簡潔に書かれた「学校体操教授要目に関する理解深めよう多く体育関係者がこれを読んだ発布され要目普及させるべく、道明東京高師女高師授業合間を縫って日本各地赴いて講習開いた道明の『学校体操教授要目普及活動により、日本中の学校スウェーデン体操器具である肋木平均台跳び箱整備された。 一方本務である東京高師教授として、「雨休み」の慣習廃止4年間を通した体操教育実施独立した体育科設置奔走し東京女高師では女子体育にも関与した道明女子校であるボストン体操師範留学していたものの、実際に女子体育指導をするのは初めての経験で、井口阿くりきびきびとした自信ある態度での指導感服したという。また東京女高師では部下二階堂トクヨ文部省留学生推薦し留学先としてマルチナ・バーグマン=オスターバーグキングスフィールド体操専門学校指定したこの間道明1910年明治43年)に、学生スポーツ技術主義勝利至上主義応援する者の退廃憂慮する論文運動競技一洗希望」を発表した同年12月10日従六位叙されている。1911年明治44年)には『文明的国民家庭体操』という書を出版、その評判当時皇太子であった大正天皇の耳にまで届き、翌1912年明治45年3月14日道明東宮御所大正天皇家庭体操披露した。また1911年明治44年)に嘉納治五郎中心になって設立した大日本体育協会(現・日本スポーツ協会)では東京高師体育部長主任として役員務め各種体育競技普及発達を図ることや、ストックホルムオリンピックへの日本の参加議決などに関与した金栗四三ストックホルム旅立つ際には壮行団の一員として寄宿舎から新橋駅まで見送り皇居二重橋前で「天皇陛下御稜威によって我が選手勝利栄冠を得さしめたまえ」と絶叫し万歳三唱した。 以上の経過を見ると道明教授生活は順風満帆であるかに見えるが、スウェーデン体操派の道明は、普通体操遊戯スポーツ)派の嘉納治五郎可児徳らと対立していた。特に1913年大正2年1月8日9日道明鳥取師範学校(現・鳥取大学)を視察した際に同校教師三橋喜久雄を見い出し東京高師教授スカウト、翌1914年大正3年12月26日付で三橋高師助教授附属小学校訓導就任すると、東京高師出身者ではない三橋引き入れたことに対して可児筆頭に普通体操遊戯スポーツ)派は猛反発した。この争い道明嘉納体育観の相違端を発し次第学閥派閥抗争へと発展、「実に語るも忌まわしき争闘波乱」と表現されるほど壮絶なものであった。ただ、両派とも「体育によって国家伸長を図る人物の陶冶目指す」という根本的な意識共通していたのである東京女高師では、道明自らが期待して留学送り出した二階堂トクヨが、道明とは違うものをスウェーデン体操から学び取って帰国したため対立することとなり、体操着道明担当するクラスではブルマー二階堂担当するクラスではチュニックと差が出ていた。道明二階堂対立中に東京女高師教えた生徒戸倉ハルがいる。 第一次世界大戦後欧米体育視察のため、1920年大正9年6月道明は再び欧米への外遊出たこの頃道明日本の学校体育界の大長老存在であり、東京高師から視察にかかる費用道明支給する予算組まれていたが、可児反対執行できず、道明東京高師休職して自費出発せざるを得なくなった。これに対して高師学生は、可児が受け持つ「競技科」の授業文科理科の者は全員ボイコットし体育科42人は授業自習とする案を校長三宅米吉提案三宅は2か月間の自習認めたという。道明日本から太平洋横断してアメリカ入りニューヨークで嘉納治五郎一行合流大西洋渡りイギリス・ロンドン経由してベルギー入りし、アントワープオリンピック観戦したオリンピック観戦終えた後は単身オランダ訪問し嘉納再度合流してドイツベルリンドレスデンチェコスロバキアプラハ巡ったプラハ嘉納別れヨーロッパ各国回ってイギリス戻り1921年大正10年1月アメリカ・ニューヨーク渡ったアメリカ中を巡って西海岸至りハワイ経由5月日本へ帰国した。 帰国した道明東京高師女高師教員復帰したが、職階講師となった1921年大正10年12月道明三橋喜久雄と「大日本体育同志会」を立ち上げ1922年大正11年1月には機関誌日本体育』を創刊した。この頃東京高師体育科教員らは「体育学会」を結成しており、機関誌体育競技』を発行していた。『日本体育』と『体育競技』は競合関係を続けたが、1926年大正15年12月をもって日本体育』は休刊大日本体育同志会解散した結局三橋東京高師派閥争い犠牲になる形で離職余儀なくされ、その後デンマーク体操学んで普及活動をするが、「学校体操教授要目」を盾に取った文部省圧力を受けることになる。道明三橋退職問題もあり、1922年大正11年)に東京高師退職し、翌1923年大正12年3月には東京女高師退職した道明自叙伝に「数多感想もあるが」と記すも派閥争いについては何も書き残していない。道明派閥争い敗れたのは、道明が単に「(スウェーデン体操を採るか競技遊戯を採るか」という教材選択をめぐる相違であると捉えたことであり、「学校体操教授要目」に時代的要求をどう読み込むかという問題深く洞察できなかったことにある。派閥争い勝利した側の普通体操遊戯スポーツ)派も、1920年大正9年1月嘉納依願退職1921年大正10年9月可児教授職下りて講師となった後に1923年大正12年4月退職している。こうして道明三橋嘉納可児去った後の東京高師体育教師陣は、大谷武一二宮右衛門宮下太郎佐々木等野口源三郎体育専攻した東京高師出身者のみで占められることになった一方東京女高師では、道明主流派で、二階堂トクヨ孤立する形となり、1922年大正11年3月二階堂退職している。

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