体操の統一と派閥争い(1909-1923)
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「永井道明」の記事における「体操の統一と派閥争い(1909-1923)」の解説
ロンドンオリンピックに向かう途中の1908年(明治41年)7月10日に東京高等師範学校と東京女子高等師範学校(東京女高師、現・お茶の水女子大学)の教授職を拝命していたことから、帰国後直ちにその任に就いた。1週間のうち月・水・金曜は東京高師で、火・木・土曜は東京女高師で教師をする傍ら、1909年(明治42年)3月13日には体操及遊戯取調委員に、3月23日には東京高師の生徒監に任命された。道明の生徒監時代に金栗四三が東京高師に入学し、大谷武一は道明の着任を知って体育学の道へ進むことを決めた。 帰国早々、留学の目的であった体操科の統一に向け道明は動き出し、道明がとりまとめた学校体操統一案は「学校体操教授要目」として1913年(大正2年)1月28日に文部省訓令第1号で発布された。また同年『学校体操要義』を著し、極めて簡潔に書かれた「学校体操教授要目」に関する理解を深めようと多くの体育関係者がこれを読んだ。発布された要目を普及させるべく、道明は東京高師・女高師の授業の合間を縫って日本各地へ赴いて講習を開いた。道明の『学校体操教授要目』普及活動により、日本中の学校にスウェーデン体操の器具である肋木・平均台・跳び箱が整備された。 一方、本務である東京高師の教授として、「雨休み」の慣習の廃止、4年間を通した体操教育の実施、独立した体育科設置に奔走し、東京女高師では女子体育にも関与した。道明は女子校であるボストン体操師範に留学していたものの、実際に女子に体育指導をするのは初めての経験で、井口阿くりのきびきびとした自信ある態度での指導に感服したという。また東京女高師では部下の二階堂トクヨを文部省留学生に推薦し、留学先としてマルチナ・バーグマン=オスターバーグのキングスフィールド体操専門学校を指定した。 この間、道明は1910年(明治43年)に、学生スポーツの技術主義・勝利至上主義や応援する者の退廃を憂慮する論文「運動競技会一洗の希望」を発表した。同年12月10日、従六位に叙されている。1911年(明治44年)には『文明的国民用家庭体操』という書を出版、その評判は当時皇太子であった大正天皇の耳にまで届き、翌1912年(明治45年)3月14日に道明は東宮御所で大正天皇に家庭体操を披露した。また1911年(明治44年)に嘉納治五郎が中心になって設立した大日本体育協会(現・日本スポーツ協会)では東京高師体育部長主任として役員を務め、各種体育競技の普及発達を図ることや、ストックホルムオリンピックへの日本の参加議決などに関与した。金栗四三がストックホルムへ旅立つ際には壮行団の一員として寄宿舎から新橋駅まで見送り、皇居の二重橋前で「天皇陛下の御稜威によって我が金栗選手に勝利の栄冠を得さしめたまえ」と絶叫し、万歳三唱した。 以上の経過を見ると道明の教授生活は順風満帆であるかに見えるが、スウェーデン体操派の道明は、普通体操・遊戯(スポーツ)派の嘉納治五郎・可児徳らと対立していた。特に1913年(大正2年)1月8日・9日に道明が鳥取師範学校(現・鳥取大学)を視察した際に同校教師の三橋喜久雄を見い出し、東京高師の教授にスカウト、翌1914年(大正3年)12月26日付で三橋が高師助教授兼附属小学校訓導に就任すると、東京高師出身者ではない三橋を引き入れたことに対して可児を筆頭に普通体操・遊戯(スポーツ)派は猛反発した。この争いは道明と嘉納の体育観の相違に端を発し、次第に学閥・派閥抗争へと発展、「実に語るも忌まわしき争闘と波乱」と表現されるほど壮絶なものであった。ただ、両派とも「体育によって国家の伸長を図る人物の陶冶を目指す」という根本的な意識は共通していたのである。東京女高師では、道明自らが期待して留学に送り出した二階堂トクヨが、道明とは違うものをスウェーデン体操から学び取って帰国したため対立することとなり、体操着も道明が担当するクラスではブルマー、二階堂が担当するクラスではチュニックと差が出ていた。道明と二階堂の対立中に東京女高師で教えた生徒に戸倉ハルがいる。 第一次世界大戦後の欧米体育の視察のため、1920年(大正9年)6月、道明は再び欧米への外遊に出た。この頃、道明は日本の学校体育界の大長老的存在であり、東京高師から視察にかかる費用を道明に支給する予算が組まれていたが、可児の反対で執行できず、道明は東京高師を休職して自費で出発せざるを得なくなった。これに対して高師の学生は、可児が受け持つ「競技科」の授業を文科・理科の者は全員でボイコットし、体育科の42人は授業を自習とする案を校長の三宅米吉に提案、三宅は2か月間の自習を認めたという。道明は日本から太平洋を横断してアメリカに入り、ニューヨークで嘉納治五郎一行と合流、大西洋を渡りイギリス・ロンドンを経由してベルギー入りし、アントワープオリンピックを観戦した。オリンピック観戦を終えた後は単身オランダを訪問し、嘉納と再度合流してドイツのベルリン、ドレスデン、チェコスロバキアのプラハを巡った。プラハで嘉納と別れ、ヨーロッパ各国を回ってイギリスに戻り、1921年(大正10年)1月、アメリカ・ニューヨークへ渡った。アメリカ中を巡って西海岸に至り、ハワイ経由で5月に日本へ帰国した。 帰国した道明は東京高師・女高師の教員に復帰したが、職階は講師となった。1921年(大正10年)12月、道明は三橋喜久雄と「大日本体育同志会」を立ち上げ、1922年(大正11年)1月には機関誌『日本体育』を創刊した。この頃、東京高師の体育科教員らは「体育学会」を結成しており、機関誌『体育と競技』を発行していた。『日本体育』と『体育と競技』は競合関係を続けたが、1926年(大正15年)12月号をもって『日本体育』は休刊、大日本体育同志会は解散した。結局、三橋は東京高師の派閥争いの犠牲になる形で離職を余儀なくされ、その後デンマーク体操を学んで普及活動をするが、「学校体操教授要目」を盾に取った文部省の圧力を受けることになる。道明は三橋の退職問題もあり、1922年(大正11年)に東京高師を退職し、翌1923年(大正12年)3月には東京女高師も退職した。道明は自叙伝に「数多の感想もあるが」と記すも派閥争いについては何も書き残していない。道明が派閥争いに敗れたのは、道明が単に「(スウェーデン)体操を採るか競技・遊戯を採るか」という教材の選択をめぐる相違であると捉えたことであり、「学校体操教授要目」に時代的要求をどう読み込むかという問題を深く洞察できなかったことにある。派閥争いに勝利した側の普通体操・遊戯(スポーツ)派も、1920年(大正9年)1月に嘉納が依願退職、1921年(大正10年)9月に可児が教授職を下りて講師となった後に1923年(大正12年)4月に退職している。こうして道明・三橋・嘉納・可児が去った後の東京高師の体育系教師陣は、大谷武一、二宮文右衛門、宮下丑太郎、佐々木等、野口源三郎ら体育を専攻した東京高師出身者のみで占められることになった。一方の東京女高師では、道明は主流派で、二階堂トクヨが孤立する形となり、1922年(大正11年)3月に二階堂が退職している。
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