日本の参加
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「パリ万国博覧会 (1878年)」の記事における「日本の参加」の解説
1876年にフランスから寺島宗則外務卿に参加要請があり、西南戦争で政情不安定であったが、これを了承し、大久保利通を博覧会事務総裁に、経費節減策を取りながら準備が進められた。副総裁の松方正義、事務官の前田正名、石原豊寛、久保弘道、御用取扱の平山成信、谷謹一郎、諏訪秀三郎、成島謙吉ら12名がフランスに派遣され、文部省派遣の九鬼隆一、手島精一、中川元らを含む約50名の日本代表団が渡仏した。トロカデロ、シャンドマルスの両会場に日本の文物を展示したほか、その中間にある広場には垣根に囲まれた日本村が造られ、三井物産による日本の農家・茶室のほか、庭には水田や菜園が再現された。
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日本の参加
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「ロンドン万国博覧会 (1862年)」の記事における「日本の参加」の解説
正式参加ではないが、駐日英国公使であったラザフォード・オールコックが、自身で収集した漆器や刀剣、版画といった日本の美術品のほか、蓑笠や提灯、草履なども展示された。また、開会式には文久遣欧使節の一行が参加し、日本が万博に関与した最初の事例となった。オールコックのコレクションに対するロンドンでの評価は、日本の国民性をみごとに表現したものとして評価され、ヨーロッパにおけるジャポニズムの契機にもなった。日本の展示品は現地では絶賛されたが、使節団の淵辺徳蔵は『欧行日記』に「全く骨董品の如く雑具」、「かくの如き粗物のみを出せしなり」と不満を書き残している。また、使節団の一員だった福沢諭吉がExhibitionを「博覧会」と訳したと言われる。 開会式に出席した使節代表は感想を聞かれ、「全体としての情景はまことに感銘深い。そして音楽もすばらしく壮大である。ただときどき音が高すぎると思う。イギリスの音楽は日本ではとうてい理解されないだろうし、日本の音楽もイギリスでは理解されないだろうが、両方とも甚だ立派であることは同じだ」と答えている。また、随行員の市川渡は西洋の写実的な絵画について、「西洋の絵画は写実の手法には優れているが、形を超えた気品や神髄を伝える点においては無知だ」と記している。使節団には薩摩藩士と佐賀藩士がいたが、このとき展示されていたアームストロング砲は、佐賀藩が1864年に自前製造に成功し、薩摩藩は1868年の戊辰戦争で使用している。
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日本の参加
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1973年の第12回パリ大会(フランス)に日本人として初めて八田加寿雄がコンテストにエントリーし、また島田晴夫がガラショー(特別ステージ)に出演した。 1976年 ウィーン大会(オーストリア)のガラショーにフロタマサトシがゲスト出演した。 1979年第14回のブリュッセル大会(ベルギー)で真田豊実がマニピュレーション部門2位と日本人として初の受賞をはたした。 1985年スペイン・マドリードの総会でフロタマサトシを会長とするSJM(Society of Japanese Magicians) が日本で最初の正式メンバーとなり、1991年スイス・ローザンヌ大会でフロタマサトシは次期会長に指名された。FISMがヨーロッパ以外で開催されるのは初めてのことで、招致にあたってのフロタマサトシの尽力は計り知れない。 2017年には山本悟が、アジア人で初となるFISMの副会長に就任した。
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日本の参加
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「シカゴ万国博覧会 (1893年)」の記事における「日本の参加」の解説
日本は、諸外国との交易推進という目的のほか、日本が文明国であることを西洋諸国に示し、不平等条約を撤廃するという目的のため、周到な準備をして博覧会に臨んだ。作品展示だけでなく、日本館の建設を希望し、(万博の景観設計責任者のフレデリック・ロー・オルムステッドは当初反対したと言われているが)日本側の熱心な交渉により、美術館の向かいにある池の中州の森という好立地に建設が許可された。万博建設部長を務めたダニエル・バーナムも「日本は極めて美しい建築物を提案しており、しかもシカゴ市に無償で寄贈すると言っている」とオルムステッドに書き送り、日本館建築を支援したと言われている。 1882年の冬に資材と25名の職人が日本から送りこまれ、宇治の平等院鳳凰堂を模した日本館「鳳凰殿」と日本庭園を建設。鳳凰殿は3棟から成り、長い歴史を持つ国であることを示すために、江戸時代、平安時代、室町時代の建築様式を取り入れ、それぞれの時代の特徴を示す美術・工芸品を展示した。設計は、イギリス人建築家コンドルの弟子である久留正道が担当し、75名の職人によって造られた。日本式の建築工法や職人らの機敏な作業風景は市民の注目を集め、連日見学者が絶えなかった。堅牢な壁の代わりに柱を用いる日本の伝統的な建築技法は内部に柔軟で開放的な空間を造り、周囲の自然環境とも流動的に交わる外観を持ち、会場に並ぶボザール様式の西洋建築とは著しく異なっており、アメリカの建築界に議論を起こした。中でもフランク・ロイド・ライトは、景観との連続性や彼が呼ぶところの「無駄の排除」など、日本建築の持つ特質に触発され、その後の彼のスタイルに影響を与えた。 日本はこの鳳凰殿と、万博メイン会場にあるいくつかの館に工芸品と美術品を展示したほか、各国の女性の芸術作品と暮らしを伝える「女性館」にも展示参加した。展示品の選考には岡倉天心らが当たった。帝国博物館所蔵の第一級の美術工芸品のほか、船から盆栽まで幅広い日本の文物を紹介した。日本の竹フィラメントを使った電球や、他の科学先進国をもしのぐ先進的な地震計なども来場者を驚かせた。 久保田米僊は、私費で渡米し「鷲図」を出品し授賞した。また会場の情景を数百枚描き、その画のいくつかは、後に展示会についての木版画の本を作るために使用された。日本の出品物は、主に磁器、七宝焼、金属細工、刺繡であった。また、55点の絵画と24点の彫刻が展示され、パレスオブファインアーツの290点の展示のうち271点は日本のものだった。出品物の作者で代表的な人物は、宮川香山、藪明山、濤川惣助であった。
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日本の参加
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「パリ万国博覧会 (1867年)」の記事における「日本の参加」の解説
日本が初めて参加した国際博覧会であり、江戸幕府、薩摩藩、佐賀藩がそれぞれ出展した。幕府からは将軍徳川慶喜の弟で御三卿・清水家当主の徳川昭武(この時15歳)らが派遣された。一方、薩摩藩からは家老の岩下方平らが、佐賀藩からは佐野常民らが派遣された。 薩摩藩は「日本薩摩琉球国太守政府」の名で幕府とは別に展示し、独自の勲章(薩摩琉球国勲章)まで作成した[要出典]。幕府は薩摩藩に抗議したが聞き入れられず、幕末の政争が如実に現れた万博となった。この時、幕府もフランスで勲章外交を行うために独自の勲章制作を開始したが、結局、間もなく幕府は倒れ、幻となった[要出典](葵勲章)。 このほかに江戸・浅草の商人(清水卯三郎)が数寄屋造りの茶屋をしつらえた。3人の柳橋芸者(おすみ、おかね、おさと)が独楽を回して遊んだり、煙管をふかしたりするだけの光景が、物珍しさから、上記の幕府や西南雄藩による公式展示以上の人気になったという。 開成所の高橋由一・宮本三平らの油彩、北斎・国貞・芳幾・芳年らの浮世絵、銀象牙細工の小道具、青銅器・磁器、水晶細工などが出品された。 また、薩摩藩からは、コンプラ瓶に入れられた状態で日本から運ばれた焼酎なども出品されている[要出典]。 日本・中国合同パビリオン 薩摩藩の展示館 万博に参加した日本の軽業師の練習風景 日本茶屋で働いた芸者のおすみ
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日本の参加
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「セントルイス万国博覧会」の記事における「日本の参加」の解説
米国からの参加要請により、1902年に公式参加を決定、総裁に平田東助、のち清浦奎吾、副総裁に松平正直、事務局長に手島精一、評議員に福羽逸人、久留正道らが就任した。展示面積は国力に比例していたため、日本は割り当てられていた敷地の拡大を交渉し、前回のパリ万博の3倍の27万平方フィートを獲得、日本館専用の会場のほか、教育、美術、工業、工藝、通運、採掘及冶金、農業、林業漁業及狩猟、電氣の9館で展示を行なった。専用会場には、本館と日本庭園のほか、事務所館、眺望亭、台湾館、売店、喫茶店などが造られた。 日本館は博覧会終了後、タカジアスターゼやアドレナリンの発明者でアメリカで成功していた高峰譲吉に譲渡され、サリバン郡 (ニューヨーク州)メリーウォルドにある高峰の所有地内に移築され、夏の別荘「松楓殿」として使用された。高峰が没した翌年妻が売却し、以降売買が繰り返され、タキヒョーの所有となった。 日本館の正門と売店 日本会場全景 喫茶店「金閣」と日本庭園 眺望亭(左)、本館(右)と日本庭園 喫茶店 日本代表団 博物館特別委員を招いた宴会 芸者。数多くの芸者が博覧会のために渡米したが、会期中に4名が死亡、1名が行方不明となった。 芸者。後ろは日本の物産販売所。賃金で揉めストライキを起こす芸者もあったが、帰国を拒否する者も多数いた。 琴と三味線の演奏 茶のお点前 日本庭園を歩く女性と子供 博覧会側から人類学上の研究のためとしてアイヌの招聘を要請され、経費は博覧会持ちで3家族と単身男性から成る9人のアイヌを渡米させた。人選はフレデリック・スタールとジョン・バチェラーが行なった。 スタールが北海道で買い求めたアイヌの家が2軒移築され、ここで8か月暮らした。工芸品が人気を集め、多額の収入を得た。 平取村から来た平村一家。当時夫婦ともに30代で娘は4歳。
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