日本の参加とは? わかりやすく解説

日本の参加

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/10 10:21 UTC 版)

パリ万国博覧会 (1878年)」の記事における「日本の参加」の解説

1876年フランスから寺島宗則外務卿参加要請があり、西南戦争政情安定であったが、これを了承し大久保利通博覧会事務総裁に、経費節減策を取りながら準備進められた。副総裁松方正義事務官前田正名石原豊寛、久保弘道御用取扱平山成信谷謹一郎諏訪秀三郎、成島謙吉ら12名がフランス派遣され文部省派遣九鬼隆一手島精一中川元らを含む約50名の日本代表団が渡仏した。トロカデロシャンドマルス両会場に日本文物展示したほか、その中間にある広場には垣根囲まれ日本村造られ三井物産による日本の農家茶室のほか、庭には水田菜園再現された。

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日本の参加

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/30 01:28 UTC 版)

ロンドン万国博覧会 (1862年)」の記事における「日本の参加」の解説

正式参加ではないが、駐日英国公使であったラザフォード・オールコックが、自身収集した漆器刀剣版画といった日本の美術品のほか、蓑笠提灯草履なども展示された。また、開会式には文久遣欧使節一行参加し日本万博関与した最初事例となったオールコックコレクション対すロンドンでの評価は、日本国民性みごとに表現したものとして評価されヨーロッパにおけるジャポニズム契機にもなった。日本展示品現地では絶賛されたが、使節団の淵辺徳蔵は『欧行日記』に「全く骨董品如く雑具」、「かくの如き物のみを出せしなり」と不満を書き残している。また、使節団一員だった福沢諭吉Exhibitionを「博覧会」と訳したと言われる開会式出席した使節代表は感想聞かれ、「全体として情景まことに感銘深い。そして音楽すばらしく壮大である。ただときどき音が高すぎると思う。イギリスの音楽日本ではとうてい理解されないだろうし、日本の音楽イギリスでは理解されないだろうが、両方とも甚だ立派であることは同じだ」と答えている。また、随行員の市川渡は西洋写実的な絵画について、「西洋絵画写実の手法には優れているが、形を超えた気品神髄伝える点においては無知だ」と記している。使節団には薩摩藩士と佐賀藩士がいたが、このとき展示されていたアームストロング砲は、佐賀藩1864年自前製造成功し薩摩藩1868年戊辰戦争使用している。

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日本の参加

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/12 06:37 UTC 版)

FISM」の記事における「日本の参加」の解説

1973年第12回パリ大会フランス)に日本人として初め八田加寿雄がコンテストエントリーし、また島田晴夫がガラショー(特別ステージ)に出演した1976年 ウィーン大会(オーストリア)のガラショーにフロタマサトシゲスト出演した1979年第14回ブリュッセル大会ベルギー)で真田豊実がマニピュレーション部門2位日本人として初の受賞はたした1985年スペイン・マドリードの総会フロタマサトシ会長とするSJMSociety of Japanese Magicians) が日本最初正式メンバーとなり、1991年スイス・ローザンヌ大会でフロタマサトシ次期会長指名された。FISMヨーロッパ以外で開催されるのは初めてのことで、招致にあたってフロタマサトシ尽力計り知れない2017年には山本悟が、アジア人で初となるFISM副会長就任した

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日本の参加

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/28 08:10 UTC 版)

シカゴ万国博覧会 (1893年)」の記事における「日本の参加」の解説

日本は、諸外国との交易推進という目的のほか、日本文明国であることを西洋諸国示し不平等条約撤廃するという目的のため、周到な準備をして博覧会臨んだ作品展示だけでなく、日本館建設希望し、(万博景観設計責任者フレデリック・ロー・オルムステッド当初反対したと言われているが)日本側の熱心な交渉により、美術館向かいにある池の中州という好立地建設許可された。万博建設部長務めたダニエル・バーナムも「日本極めて美し建築物提案しており、しかもシカゴ市無償寄贈すると言っている」とオルムステッドに書き送り日本館建築支援したと言われている。 1882年の冬に資材25名の職人日本から送りこまれ、宇治平等院鳳凰堂模した日本館鳳凰殿」と日本庭園建設鳳凰殿3棟から成り長い歴史を持つ国であることを示すために、江戸時代平安時代室町時代建築様式取り入れそれぞれの時代特徴を示す美術・工芸品展示した設計は、イギリス人建築家コンドル弟子である久留正道担当し75名の職人によって造られた。日本式建築工法職人らの機敏な作業風景市民注目集め連日見学者絶えなかった。堅牢な壁の代わりに用い日本の伝統的な建築技法内部柔軟開放的な空間造り周囲自然環境とも流動的に交わる外観持ち会場に並ぶボザール様式西洋建築とは著しく異なっており、アメリカの建築界に議論起こした中でもフランク・ロイド・ライトは、景観との連続性や彼が呼ぶところの「無駄の排除」など、日本建築の持つ特質触発されその後彼のスタイル影響与えた日本はこの鳳凰殿と、万博メイン会場にあるいくつかの館に工芸品美術品展示したほか、各国女性芸術作品暮らし伝える「女性館」にも展示参加した展示品選考には岡倉天心らが当たった帝国博物館所蔵第一級美術工芸品のほか、船から盆栽まで幅広い日本文物紹介した日本の竹フィラメント使った電球や、他の科学先進国をもしのぐ先進的な地震計なども来場者驚かせた。 久保田米僊は、私費渡米し図」を出品し授賞した。また会場情景数百描き、その画のいくつかは、後に展示会についての木版画の本を作るために使用された。日本出品物は、主に磁器七宝焼金属細工刺繡であったまた、55点の絵画24点彫刻展示され、パレスオブファインアーツの290点の展示のうち271点は日本のものだった。出品物の作者代表的な人物は、宮川香山明山濤川惣助であった

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日本の参加

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/29 03:55 UTC 版)

パリ万国博覧会 (1867年)」の記事における「日本の参加」の解説

日本初め参加した国際博覧会であり、江戸幕府薩摩藩佐賀藩それぞれ出展した幕府からは将軍徳川慶喜の弟で御三卿清水家当主徳川昭武(この時15歳)らが派遣された。一方薩摩藩からは家老岩下方平らが、佐賀藩からは佐野常民らが派遣された。 薩摩藩は「日本薩摩琉球国太守政府」の名で幕府とは別に展示し、独自の勲章薩摩琉球国勲章)まで作成した[要出典]。幕府薩摩藩抗議した聞き入れられず、幕末政争如実に現れ万博となった。この時、幕府フランスで勲章外交を行うために独自の勲章制作開始したが、結局間もなく幕府倒れ、幻となった[要出典](葵勲章)。 このほかに江戸浅草商人清水卯三郎)が数寄屋造り茶屋しつらえた。3人の柳橋芸者(おすみ、おかね、おさと)が独楽回して遊んだり、煙管ふかしたりするだけの光景が、物珍しさから、上記幕府西南雄藩による公式展示上の人になったという。 開成所高橋由一宮本三平らの油彩北斎国貞・芳幾・芳年らの浮世絵、銀象牙細工小道具青銅器磁器水晶細工などが出品された。 また、薩摩藩からは、コンプラ瓶入れられた状態で日本から運ばれ焼酎なども出品されている[要出典]。 日本・中国合同パビリオン 薩摩藩展示館 万博参加した日本軽業師練習風景 日本茶屋で働いた芸者のおすみ

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日本の参加

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/31 06:04 UTC 版)

セントルイス万国博覧会」の記事における「日本の参加」の解説

米国からの参加要請により、1902年に公式参加決定総裁平田東助、のち清浦奎吾副総裁松平正直事務局長手島精一評議員福羽逸人久留正道らが就任した展示面積国力比例していたため、日本割り当てられていた敷地拡大交渉し前回パリ万博の3倍の27万平フィート獲得日本館専用会場のほか、教育美術工業工藝通運採掘冶金農業林業漁業狩猟電氣の9館で展示行なった専用会場には、本館日本庭園のほか、事務所館、眺望亭、台湾館、売店喫茶店などが造られた。 日本館博覧会終了後タカジアスターゼやアドレナリンの発明者アメリカで成功していた高峰譲吉譲渡されサリバン郡 (ニューヨーク州)メリーウォルドにある高峰所有地内移築され、夏の別荘殿」として使用された。高峰没した翌年妻が売却し以降売買繰り返されタキヒョー所有となった日本館正門売店 日本会全景 喫茶店金閣」と日本庭園 眺望亭(左)、本館(右)と日本庭園 喫茶店 日本代表博物館特別委員招いた宴会 芸者。数多く芸者博覧会のために渡米したが、会期中に4名が死亡、1名が行不明となった芸者後ろ日本物産販売所賃金揉めストライキ起こす芸者もあったが、帰国拒否する者も多数いた。 琴と三味線演奏 お点前 日本庭園を歩く女性子供 博覧会側から人類学上の研究のためとしてアイヌ招聘要請され経費博覧会持ちで3家族単身男性から成る9人のアイヌ渡米させた。人選フレデリック・スタールジョン・バチェラーが行なった。 スタール北海道買い求めたアイヌの家が2軒移築され、ここで8か月暮らした工芸品人気集め多額収入得た平取村から来た平村一家当時夫婦ともに30代で娘は4歳

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