日本の参戦と太平洋戦役
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/16 09:07 UTC 版)
「第一次世界大戦」の記事における「日本の参戦と太平洋戦役」の解説
詳細は「アジア・太平洋戦役 (第一次世界大戦)(英語版)」を参照 「第一次世界大戦下の日本」も参照 東洋で唯一の大国である日本は、同盟国のイギリスからの後押しもあり、1914年8月15日にドイツに対し最後通牒を行った。直接国益に関与しない第一次世界大戦への参戦には異論も存在したため、一週間の回答期限を設ける異例の対応になったが、結局ドイツはこれに回答せず、日本は8月23日に宣戦布告した。 なお、大隈重信首相は御前会議を招集せず、議会承認も軍統帥部との折衝も行わないで緊急閣議において要請から36時間後には参戦を決定した。大隈の前例無視と軍部軽視は後に政府と軍部との関係悪化を招くことになった。 また、第一次世界大戦でイギリスは本土だけでなく、オーストラリアやインド帝国などイギリス帝国各地から兵を動員した。8月30日、ニュージーランドはドイツ領サモア(英語版)を占領(英語版)した。9月11日、オーストラリア海陸遠征軍(英語版)がドイツ領ニューギニアのノイポンメルン島に上陸した。10月28日、ドイツの軽巡洋艦エムデンがペナンの海戦(英語版)でロシアの防護巡洋艦ジェムチュクを撃沈した。 ドイツ領南洋諸島を占領するかについては日本国内でも結論が定まっていなかった。参戦を主導した加藤高明外相も、南洋群島占領はイギリス植民地政府とアメリカを刺激するとして消極的であった。ところが、9月に入り巡洋艦ケーニヒスベルグによるアフリカ東岸での英艦ペガサス撃沈、エムデンによる通商破壊などドイツ東洋艦隊の活動が活発化したことで、イギリス植民地政府の対日世論は沈静化した。アメリカにおいても、一時はハースト系のイエロー・ペーパーを中心として目立った対日警戒論も落ち着いてきた。 このような情勢を受け南洋諸島の占領が決定された。10月3日から14日にかけて、第一、第二南遣支隊に属する「鞍馬」「浅間」「筑波」「薩摩」「矢矧」「香取」によって南洋諸島のうち赤道以北の島々(マリアナ諸島、カロリン諸島、マーシャル諸島)が占領された。これら島々の領有権は戦後に決定するという合意があり、日本の国民感情的には期待があった。 開戦前に南洋諸島に派遣されていたドイツ東洋艦隊は逃亡し、パガン島付近で補給艦からの支援を受けた後に、南アメリカ大陸最南端のホーン岬廻り(ドレーク海峡経由)で本国へ帰還するため東太平洋へ向かった。連合国軍は数か月内に太平洋におけるドイツ領を全て奪取、単独の通商破壊艦やニューギニアで粘った拠点のいくつかだけが残った。本国帰還を目指したドイツ艦隊は英艦隊の追跡・迎撃を受け、東太平洋におけるコロネル沖海戦(11月1日)では勝利したものの、南大西洋のフォークランド沖海戦(12月8日 )に敗れて壊滅した。
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