日本の収容所の状況
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/08 07:41 UTC 版)
第二次世界大戦が勃発すると、日本は帝国の拡張を目的としていくつかの戦い(特に日中戦争)に関与した。ヨーロッパで戦争が勃発した際には中立を維持したが、1941年に、大日本帝国陸軍が香港、シンガポール、タイ、フィリピン、真珠湾に対する奇襲を行ったために、アメリカが連合国側で参戦することになった。1942年、日本軍がイギリスから香港を奪取した後に、九龍に連合国捕虜の収容のために、捕虜収容所を数ヶ所建設した。 戦闘中に生きて捕虜になるのは恥であると考えられていたために、日本軍は残忍な方法で収容所を運営して、多くの連合国捕虜が亡くなった。大日本帝国陸軍の規約には、落ち着いて死に対峙しないといけないという「武士道精神」が含まれていた。命令違反者は斬首刑に処せられ、日本軍の士官が持つ刀により処刑された。刀は日本人が持つ忍耐力と叡智の象徴と見なされ、刀によって死ぬのは栄誉であると受け取られていた。 日本の収容所において、連合国捕虜は、橋の建設、要塞の建設、塹壕の掘削といった肉体労働に強制的に従事させられた。捕虜には限られた食料しか与えられず、一旦、制服を擦り切れたらならば、代替品が与えられることはなかった。残忍な警備員の中には、水の要求に対して、水の代わりに殴打したりライフル銃の端で叩いた者もいたとされる。捕虜が使い物にならなかったり、肉体的に弱ったり、反抗的だったりといったように見られた場合は、しばしば殺害されたという。終戦して、収容所の捕虜が解放された際には、多くが身体の部分を失ってしまっており、また多くが飢えて、歩く骸骨に似ていたという。一部の捕虜は、アメリカの爆撃に対する報復として、日本に処刑されることを恐れていた。警備員の残忍さは捕虜にトラウマを与えて、その後の数十年続く精神病に苦しませることになった。多くの事例で、収容所からの生還者はトラウマを抱えたり、障害を抱えて生活することを余儀なくされた。多くの生還者は、故郷や世界の他の地域に向かいビジネスマンとして成功を収めたり、あるいは、貧しい人々や助けを必要とする収容所の人々を助けることに人生を捧げた者もいたとされる。元捕虜、中佐のPhillip Tooseyは、日本人が行った残忍で残虐な行為について述べた。それらの行為には、警備員が捕虜を有刺鉄線で縛り、捕虜の鼻に水を詰めた上に、捕虜の側に立ち、有刺鉄線の上で足踏みするといった行為も含まれていた。あるいは、警備員が捕虜を親指で木に縛り付け、足が辛うじて地面に付くぐらいで、2日間ほど水または食料なしで放置したといった行為もあったという。2日間の拷問の末に、捕虜は処刑に先立って投獄され、その後、彼らの遺体は焼却されたとされる。 捕虜収容所における生活は、en:Jack Bridger Chalker、en:Philip Meninsky、en:John Mennie、en:Ashley George Old、ロナルド・サールといった芸術家自身が大きな危険にさらされながら、記録を残した。しばしば、髪の毛が絵筆として、血と植物の汁が塗料として、そしてトイレットペーパーがキャンバスとして使われた。作品の一部が、日本人の戦争犯罪の証拠として使われた。多くの作品は現在もオーストラリア戦争記念館、ビクトリア州立図書館、ロンドンの帝国戦争博物館に所蔵されている。ビクトリア州立図書館は、1995年にThe Major Arthur Moon Collectionでこれらの多くの作品を展示した。 2016年、戦争歴史家のアントニー・ビーヴァー(最近どう著作The Second World Warを完成させた)は、「最近、イギリス政府が、一部の日本の収容所の捕虜が殺して食べるために太らされたという情報を発した」と述べ「明らかに、ウィンストン・チャーチルは、このような残虐行為を認知していたが、情報を秘密にしたために、家族が、息子が戦死ではなくカニバリズムの被害者だったと知ったら酷く苦しめられることになるだろう。」と主張した。 日本の収容所の死者数は他所より多かった。あまりにも厳重に脱走を防いでいたために、赤十字社はこれらの収容所に小包を届けることができなかった。
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