文久遣欧使節とは? わかりやすく解説

文久遣欧使節

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/06/13 00:07 UTC 版)

文久2年(1862年)オランダにて。右から柴田剛中福澤諭吉、太田源三郎、福田作太郎
使節団の主要メンバー。左から、松平康直(副使)、竹内保徳(正使)、京極高朗(目付)、柴田剛中(組頭)
柴田剛中(着席)他使節一行。
左端 高島祐啓、左から2番目 福沢諭吉、右端 太田源三郎

文久遣欧使節(第1回遣欧使節、開市開港延期交渉使節)は、江戸幕府オランダフランスイギリスプロイセンポルトガルとの修好通商条約1858年)で交わされた両港(新潟兵庫)および両都(江戸大坂)の開港開市延期交渉と、ロシアとの樺太国境画定交渉のため、文久元年(1862年)にヨーロッパに派遣した最初の使節団である。正使は、竹内保徳(下野守)、副使は松平康直(石見守、後の松平康英)、目付は京極高朗(能登守)であった。この他、柴田剛中(組頭)、福地源一郎福沢諭吉松木弘安(後の寺島宗則)箕作秋坪らが一行に加わり、総勢36名となり、さらに後日通訳(蘭語英語)の森山栄之助と渕辺徳蔵が加わり38名となった。竹内遣欧使節とも[1]

使節一行

そのほか三使節の家来が2名ずつと柴田の従者1名

  • 竹内下野守家来・長尾条介
  • 同・高間応輔
  • 松平石見守家来・野沢伊久太
  • 同・市川渡(市川清流
  • 京極能登守家来・黒沢新左衛門
  • 同・岩崎豊太夫
  • 柴田貞太郎従者・永持五郎次

賄方並小使雇人として7人いたが、各藩の藩士も含まれていた。

[6][7][8]

旅程

文久遣欧使節行程。高島祐啓画
オーデン号。 高島祐啓画
ナポレオン3世に謁見する使節団
ロンドン万博を見学する使節団

万延元年遣米使節を見たオールコック駐日英国公使やベルクール駐日仏国公使の幕府および本国政府に対する画策が奏功し実現した。オールコックは当初開港延期交渉に関しては反対の立場をとっていたが、幕府の内情を知るにつれて、これを支援するようになった。また、自身の休暇帰国を一行の日程と合せ、交渉のサポートを行うこととした。

文久元年12月22日、(1862年1月21日)、一行は英国海軍の蒸気フリゲート、オーディン号(HMS Odin)で欧州に向かって品川港を出発した。長崎英領香港英領シンガポール英領セイロン、アデン保護領(en:Aden Protectorate)を経てエジプトスエズに上陸、鉄道でカイロからアレクサンドリアに出て、船で地中海を渡り英領マルタを経て、マルセイユに入った(4月3日)。

パリに到着(4月7日)、フランスと交渉したが、開港延期の同意は得られなかった。その後、カレーから英仏海峡を横断、文久2年4月2日(1862年4月30日)、イギリスロンドンに到着した。ここで、日本の内情を知るオールコックが休暇帰国するのを待ち、オールコックの協力を得て、同年5月9日6月6日)、日本国内の事情に鑑み(すなわち攘夷熱の高まり)、兵庫、新潟、江戸、大坂の開港・開市を5年延期し、1868年1月1日とするロンドン覚書が調印された。

その後、オランダ(6月13日 - )、プロイセンベルリン(7月18日 - )と他国とも同様の覚書を締結した。

その後、ロシアサンクトペテルブルクに入る(8月8日 - )。しかし、樺太国境画定に関するロシアとの交渉は合意に至らなかった。

復路ではカウナス、プロイセン王国、フランス帝国(パリ覚書締結)を経てポルトガルを訪れた(10月9日 - )。帰路は英領ジブラルタルを経由、往路とほぼ同じ行路をたどり、文久2年12月11日1863年1月30日)、約1年間の旅を終え一行は帰国した。

ロンドンには、ロンドン万国博覧会に合わせて滞在し、何度も会場を訪ねて熱心に見学した。一行の姿は奇異な目で見られた一方、礼儀正しい態度振る舞いは感心された[1]。ロンドン万博の日本コーナーには、オールコックが収集した品が展示され、日本の物品が展示された最初の万博となった[1]。日本の展示品は現地では絶賛されたが、使節団は「骨董品のような雑具ばかりで粗物のみを出品している」と嘆いた[1]。なお、5年後のパリ万国博覧会には幕府と薩摩藩がそれぞれ参加することになる。一行はロンドン逗留中、産業革命を経験したイギリスの鉄道や国会議事堂バッキンガム宮殿大英博物館、電信局、海軍工廠、造船所、銃器工場などを訪れた。その中には、1860年に終結した第二次アヘン戦争で活躍したアームストロング砲もあり、一行が製作過程を視察した6年後の戊辰戦争で使用されるに至った[1]

欧州滞在中の一行の姿は、ナダールによって写真に収められている。

参考文献

  • 『異国人の見た幕末・明治 JAPAN 愛蔵版』 新人物往来社、2005年 ISBN 4404032528
  • 佐野真由子 『オールコックの江戸 初代英国公使が見た幕末日本』 中公新書、2003年 ISBN 4121017102

主な関連書籍

関連項目

脚注

  1. ^ a b c d e 1862年第2回ロンドン万博、日本人がはじめて見た万博 国立国会図書館電子展示会「博覧会」
  2. ^ 日高圭三郎為善(当時24歳)- プロファイル 万延元年遣米使節子孫の会
  3. ^ 益頭駿次郎尚俊(当時32歳)- プロファイル 万延元年遣米使節子孫の会
  4. ^ 新潟の音楽・文学・美術の萌芽とその後(2019. 10. 13全国外国人居留地研究会横浜大会) 敬和学園大学、2019-10-13
  5. ^ 佐藤恒蔵秀長(豊後杵築藩士)(当時37歳)- プロファイル 万延元年遣米使節子孫の会
  6. ^ 『慶應義塾百年史: 上巻』慶応義塾, 1958年、p142
  7. ^ 幕末の遣欧使節竹内下野守一行 大阪毎日新聞 1928.5.17-1928.5.30 (昭和3)
  8. ^ 幕末の遣欧使節団1.開市開港延期交渉使節団の一行 東京大学附属図書館

外部リンク


文久遣欧使節

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柴田剛中」の記事における「文久遣欧使節」の解説

文久2年1862年12月幕府派遣した遣欧使節(文久遣欧使節)の組頭としてヨーロッパ渡り開港開市延期交渉あたった翌年12月帰国直ち外国奉行並に任じられ翌年11月外国奉行として箱館派遣決定され翌月には諸大夫任じられた。慶応元年1865年)閏5月製鉄所建設及び軍制調査正使として再度フランス・イギリスに派遣された。7月フランス入った柴田らはフランスとの製鉄所建設軍事教練必要な協定締結することに成功するが、薩摩藩との関係強めつつあったイギリスとの交渉には成功しなかった。11月フランス出発し翌年1月帰国した

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