文久説
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/14 08:02 UTC 版)
『取調書』の書付には1860年とある。26頭の馬の名前・特徴がそれぞれ記され、農商務省の文書であり、信憑性は高い。明確な根拠がない限り否定しがたい。後に、1866年を1860年と誤った可能性はあるが、当時の日本人が慶応を文久と誤るとは考えにくい。日本着は翌1861年(文久元年)と考えられる。実際に馬を見た村上要信は前掲書に書付の写しを掲載し、1860年に我が萬延元年と注釈をつけており、疑いを持っていなかったと考えられる。 廣澤が触れた、ハリー号が明治19年(1886年)に29歳とする新聞記事は、現在、馬の生年月日が不明のため、『取調書』の書付と照合した場合、三通りの考え方ができる。書付と新聞記事の年齢を満年齢とし、イロンデールが7歳のうちに日本着とすると、29歳はその22年後のため、1864年(文久4年)日本着である。残り二通りは慶応の節に記す。 『下総御料牧場要覧』に文久年間に輸入、『畜産要務彙集』では蚕種数万枚に対する返礼として文久年間に来たとしている。 今井吉平の記述は、第二次長州征伐前の時期の将軍の権威に関する認識の欠如を示す一方で、大正初期には馬が文久期に来たと信じられていた事を示す。 今井幹夫は蚕卵紙が文久元年と慶応元年の2回にわたって送られ、馬は文久年間に来たとしている。 前掲、松戸市資料によれば、実際に慶喜が乗った馬は、ロッシュ献上のため、先に日本に来ていた馬である。
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