文久事件と自害とは? わかりやすく解説

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文久事件と自害

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/11 23:35 UTC 版)

河原翠城」の記事における「文久事件と自害」の解説

忠弘が安政4年1858年)、18歳若さ夭折すると、その跡継ぎを巡って可則は忠弘の遺言称して三男・扇松丸(後の森忠儀)を推挙。これに憤激した可彜と真輔は、忠徳を説得して次男・遊亀丸森忠典)に跡目を継がせた。跡目争い破れ焦った可則は、急遽二郎勘定奉行任じるなど、強引な人事改革強行しようとしたが、厭世的な忠徳は改革中止決断。可則は蟄居し、寅二郎は藩から追放された。 翠城は文久2年1862年8月、忠典の侍読学問教授役)に就任。さらに9月には寅二郎後任として勘定札座産物奉行所差配産物取締役任じられた。だが、この人事が寅二郎同情する下級藩士らの怒りを買うこととなった実権掌握した可彜が藩政顧みず華美な生活を送っていたこともあり、下級藩士憤懣頂点達し、やがて、尊皇攘夷派として活動していた西川升吉の元に不満分子集結した。この西川また、翠城の門弟自称して村上家信頼得ていた一方、可則と通じて藩の不満分子組織していた。 かくして文久2年12月9日西川13人の下級藩士によって可彜、真輔両名暗殺された(「文久事件」)。翠城は公務のため滞在していた大阪凶報を受け、急いで帰国するも、すでに藩は復権した続之丞一派制圧されていた。可則は喝采を叫ぶ下級武士たちにおもねる形で森・村両家閉門下し、翠城は追放処分受けた。 翠城は潔く処分を受け、家族置いて出立するも、領内にはすでに翠城を討とうとする襲撃者たちが待ち構えており、河原家菩提寺である福泉寺赤穂市加里屋)から動けなくなってしまった。駆けつけ親族が藩大目付訴えるも聞き届けられず、進退窮まった翠城は境内にて自刃した。享年36

※この「文久事件と自害」の解説は、「河原翠城」の解説の一部です。
「文久事件と自害」を含む「河原翠城」の記事については、「河原翠城」の概要を参照ください。

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