文久事件と自害
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忠弘が安政4年(1858年)、18歳の若さで夭折すると、その跡継ぎを巡って可則は忠弘の遺言と称して三男・扇松丸(後の森忠儀)を推挙。これに憤激した可彜と真輔は、忠徳を説得して次男・遊亀丸(森忠典)に跡目を継がせた。跡目争いに破れ焦った可則は、急遽寅二郎を勘定奉行に任じるなど、強引な人事で改革を強行しようとしたが、厭世的な忠徳は改革中止を決断。可則は蟄居し、寅二郎は藩から追放された。 翠城は文久2年(1862年)8月、忠典の侍読(学問教授役)に就任。さらに9月には寅二郎の後任として勘定・札座・産物奉行所差配産物総取締役に任じられた。だが、この人事が寅二郎に同情する下級藩士らの怒りを買うこととなった。実権を掌握した可彜が藩政を顧みず華美な生活を送っていたこともあり、下級藩士の憤懣は頂点に達し、やがて、尊皇攘夷派として活動していた西川升吉の元に不満分子が集結した。この西川もまた、翠城の門弟を自称して村上家の信頼を得ていた一方、可則と通じて藩の不満分子を組織していた。 かくして文久2年12月9日、西川ら13人の下級藩士によって可彜、真輔両名が暗殺された(「文久事件」)。翠城は公務のため滞在していた大阪で凶報を受け、急いで帰国するも、すでに藩は復権した続之丞一派に制圧されていた。可則は喝采を叫ぶ下級武士たちにおもねる形で森・村上両家に閉門を下し、翠城は追放処分を受けた。 翠城は潔く処分を受け、家族を置いて出立するも、領内にはすでに翠城を討とうとする襲撃者たちが待ち構えており、河原家の菩提寺である福泉寺(赤穂市加里屋)から動けなくなってしまった。駆けつけた親族が藩大目付に訴えるも聞き届けられず、進退窮まった翠城は境内にて自刃した。享年36。
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