文久三年の京都
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文久3年(1863年)、将軍・徳川家茂が朝廷からの再三の要求により徳川家光以来200年ぶりの上洛を余儀なくされるが、古例にのっとり米沢藩上杉家も将軍上洛の随伴を申し出た。宮島は家督相続前であるため、父・吉利の随員の資格でこれに参加した。同年元日、藩主・上杉斉憲の出発を見届けた後、正月9日、家老・千坂高明に従って出立。江戸藩邸で父と再会した後、2月10日に共に入京した。京都では江馬天江や梁川紅蘭、藤井竹外、山中静逸ら漢詩人や書家と交流。5月20日、尊攘派公卿の姉小路公知が暗殺された朔平門外の変が起きると、犯人と目された田中新兵衛(薩摩藩士)の寓居に居合わせた下僕の太郎を米沢藩が預かることとなったが、脱獄されるなどの事件が起きている。当時の京都では長州藩とそれを支持する姉小路や三条実美ら尊攘派公卿が朝政を壟断し、孝明天皇の不興を買っていた。そんな中、上杉斉憲が池田慶徳(鳥取藩主)・池田茂政(岡山藩主)・蜂須賀茂韶(徳島藩主)と共に、関白・鷹司輔煕に呼び出され、孝明天皇の攘夷親征と大和行幸の是非を諮問される事態となる。緊迫する政情に、宮島は「公武一和」「攘夷不可」との建議を上申するが、直後に起きた八月十八日の政変により、長州系尊攘派は京都から一掃されることとなった。宮島はこの事件の前後から、薩摩藩とともに政変を主導した会津藩の公用方・秋月悌次郎、広沢富次郎らと接触・交流し、名が知られるようになる。
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