文久三年の京都とは? わかりやすく解説

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文久三年の京都

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/11 04:35 UTC 版)

宮島誠一郎」の記事における「文久三年の京都」の解説

文久3年1863年)、将軍徳川家茂朝廷からの再三要求により徳川家光以来200年ぶりの上洛を余儀なくされるが、古例のっとり米沢藩上杉家将軍上洛随伴申し出た宮島家督相続前であるため、父・吉利随員資格でこれに参加した同年元日藩主上杉斉憲出発見届けた後、正月9日家老千坂高明に従って出立江戸藩邸で父と再会した後、2月10日に共に入京した。京都では江馬天江梁川紅蘭藤井竹外山中静逸漢詩人書家交流5月20日尊攘派公卿姉小路公知暗殺され朔平門外の変起きると、犯人目され田中新兵衛薩摩藩士)の寓居居合わせた下僕太郎米沢藩が預かることとなったが、脱獄されるなどの事件起きている。当時京都では長州藩とそれを支持する姉小路三条実美尊攘派公卿朝政壟断し、孝明天皇不興買っていた。そんな中上杉斉憲池田慶徳鳥取藩主)・池田茂政岡山藩主)・蜂須賀茂韶徳島藩主)と共に関白鷹司輔煕呼び出され孝明天皇攘夷親征大和行幸の是非を諮問され事態となる。緊迫する政情に、宮島は「公武一和」「攘夷不可」との建議上申するが、直後起きた八月十八日の政変により、長州尊攘派京都から一掃されることとなった宮島はこの事件前後から、薩摩藩とともに政変主導した会津藩公用方・秋月悌次郎広沢富次郎らと接触交流し、名が知られるうになる

※この「文久三年の京都」の解説は、「宮島誠一郎」の解説の一部です。
「文久三年の京都」を含む「宮島誠一郎」の記事については、「宮島誠一郎」の概要を参照ください。

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