文久の軍制改革と作戦行動とは? わかりやすく解説

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文久の軍制改革と作戦行動

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/15 16:48 UTC 版)

幕府海軍」の記事における「文久の軍制改革と作戦行動」の解説

文久元年1861年5月軍制改革推進するため10名の軍制掛が任命された。海軍に関して軍制掛の1人である軍艦奉行木村中心に改革計画立案が行われた。同年6月軍艦組が設置され軍艦頭取矢田堀鴻小野友五郎伴鉄太郎任命され、後に荒井郁之助肥田浜五郎木下謹吾(伊沢謹吾)らが軍艦頭取加えられた。文久2年1862年7月船手組が、同年8月には小普請組288名が軍艦組に編入された。同年関船などの在来軍船全廃された。 同年国産蒸気船千代田形」の建造開始。さらに、留学生オランダ派遣軍艦海外発注アメリカ:「富士山」東艦」、オランダ:「開陽丸」)を実施した多数中古船輸入進められた。また大阪湾防備拠点として神戸着目する勝の運用構想伴って新たな海軍教育機関として、元治元年1864年)に神戸海軍操練所開校されたが、これは翌慶応元年1865年)には閉鎖されてしまった。 また閏8月軍艦奉行 木村摂津守により、海軍拡張計画提案された。これは日本6つ警備管区分けて艦隊整備するもので、艦船370艘、乗員61,205人と見込まれていた。しかし政事総裁職 松平春嶽幕府海軍権能集中させる点に反発し、また軍艦奉行勝麟太郎計画コストの高さ批判したことから、この計画採択されず、木村文久3年1863年9月26日軍艦奉行辞職した幕府海軍艦船は、国内での部隊物資要人輸送などに活躍した。また水戸浪士による横浜居留地襲撃の噂があったことから、万延元年1860年)閏3月より、神奈川港において、講武所剣術槍術修行人を乗艦させた軍艦2隻による常駐警備開始されたが、稼動艦に余裕がなく、また実際襲撃起きなかったこともあり、元治元年1864年4月終了となったその後同年3月勃発した天狗党の乱への鎮定投入されることになり、沖合偵察する筑波勢の小舟撃沈したほか、艦砲射撃実施している。これは日本近代海軍として初の実戦投入であった

※この「文久の軍制改革と作戦行動」の解説は、「幕府海軍」の解説の一部です。
「文久の軍制改革と作戦行動」を含む「幕府海軍」の記事については、「幕府海軍」の概要を参照ください。

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