文久の軍制改革と作戦行動
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「幕府海軍」の記事における「文久の軍制改革と作戦行動」の解説
文久元年(1861年)5月、軍制改革を推進するため10名の軍制掛が任命された。海軍に関しては軍制掛の1人である軍艦奉行の木村を中心に改革の計画立案が行われた。同年6月、軍艦組が設置され、軍艦頭取に矢田堀鴻、小野友五郎、伴鉄太郎が任命され、後に荒井郁之助、肥田浜五郎、木下謹吾(伊沢謹吾)らが軍艦頭取に加えられた。文久2年(1862年)7月に船手組が、同年8月には小普請組288名が軍艦組に編入された。同年、関船などの在来型軍船は全廃された。 同年、国産蒸気船「千代田形」の建造を開始。さらに、留学生のオランダ派遣、軍艦の海外発注(アメリカ:「富士山」「東艦」、オランダ:「開陽丸」)を実施した。多数の中古船の輸入も進められた。また大阪湾の防備拠点として神戸に着目する勝の運用構想に伴って、新たな海軍教育機関として、元治元年(1864年)に神戸海軍操練所も開校されたが、これは翌慶応元年(1865年)には閉鎖されてしまった。 また閏8月、軍艦奉行 木村摂津守により、海軍大拡張計画が提案された。これは日本を6つの警備管区に分けて艦隊を整備するもので、艦船370艘、乗員61,205人と見込まれていた。しかし政事総裁職 松平春嶽は幕府に海軍の権能を集中させる点に反発し、また軍艦奉行並 勝麟太郎も計画のコストの高さを批判したことから、この計画は採択されず、木村は文久3年(1863年)9月26日に軍艦奉行を辞職した。 幕府海軍の艦船は、国内での部隊や物資、要人輸送などに活躍した。また水戸浪士による横浜居留地襲撃の噂があったことから、万延元年(1860年)閏3月より、神奈川港において、講武所の剣術・槍術修行人を乗艦させた軍艦2隻による常駐警備が開始されたが、稼動艦に余裕がなく、また実際の襲撃が起きなかったこともあり、元治元年(1864年)4月に終了となった。 その後、同年3月に勃発した天狗党の乱への鎮定に投入されることになり、沖合を偵察する筑波勢の小舟を撃沈したほか、艦砲射撃も実施している。これは日本の近代海軍として初の実戦投入であった。
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