文久政局に乗り出すとは? わかりやすく解説

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文久政局に乗り出す

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/23 02:58 UTC 版)

池田慶徳」の記事における「文久政局に乗り出す」の解説

文久2年1862年4月薩摩藩主の実父島津久光が藩兵を率いて上洛し、朝幕間周旋乗り出すこれを機に鳥取藩でも慶徳国事周旋推進しようとする声が尚徳教授方を中心に上がったが、慶徳にその気はなく、藩主側近保守派周旋方(推進派)に取り合わなかった。しかし、同年7月長州藩主毛利慶親土佐藩山内豊範相次いで入洛し、京都尊王攘夷機運が高まるとの報に接すると、国事周旋乗り出す決意固める。 9月朝廷幕府攘夷促すための勅使派遣決定すると、幕府優柔懸念した慶徳10月15日入洛して国事周旋勅諚を受け、20日には敬親・豊範に続いて参内果たした。そして東下周旋の命を受け、11月5日江戸に着くと政事総裁職松平春嶽山内容堂松平容保らと会談重ねた。さらに、奉勅攘夷決した幕議対し異議唱えて将軍後見職辞任表明し登城拒否していた異母弟一橋慶喜説得あたった勅使迎えた将軍徳川家茂攘夷勅諚奉じその方策は翌春上洛して協議する決したのを見届けると、慶徳12月に再び入洛し、攘夷幕府一任して外藩退京させるよう朝廷働きかけた。明けて文久3年1863年正月には、攘夷期限決定しそれまで早急な武備充実努め幕府主導挙国一致体制を整えるよう幕府建白する。

※この「文久政局に乗り出す」の解説は、「池田慶徳」の解説の一部です。
「文久政局に乗り出す」を含む「池田慶徳」の記事については、「池田慶徳」の概要を参照ください。

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