文久政局に乗り出す
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文久2年(1862年)4月に薩摩藩主の実父島津久光が藩兵を率いて上洛し、朝幕間の周旋に乗り出す。これを機に鳥取藩でも慶徳の国事周旋を推進しようとする声が尚徳館教授方を中心に上がったが、慶徳にその気はなく、藩主側近の保守派は周旋方(推進派)に取り合わなかった。しかし、同年7月に長州藩主毛利慶親、土佐藩主山内豊範が相次いで入洛し、京都で尊王攘夷の機運が高まるとの報に接すると、国事周旋に乗り出す決意を固める。 9月に朝廷が幕府に攘夷を促すための勅使派遣を決定すると、幕府の優柔を懸念した慶徳は10月15日に入洛して国事周旋の勅諚を受け、20日には敬親・豊範に続いて参内を果たした。そして東下周旋の命を受け、11月5日に江戸に着くと政事総裁職の松平春嶽や山内容堂・松平容保らと会談を重ねた。さらに、奉勅攘夷と決した幕議に対し、異議を唱えて将軍後見職辞任を表明し登城を拒否していた異母弟一橋慶喜の説得にあたった。 勅使を迎えた将軍徳川家茂が攘夷の勅諚を奉じ、その方策は翌春上洛して協議すると決したのを見届けると、慶徳は12月に再び入洛し、攘夷は幕府に一任して外藩は退京させるよう朝廷に働きかけた。明けて文久3年(1863年)正月には、攘夷期限を決定し、それまでに早急な武備充実に努め幕府主導で挙国一致体制を整えるよう幕府に建白する。
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