池田慶徳
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池田 慶徳(いけだ よしのり)は、幕末の大名、明治前期の華族。因幡鳥取藩第12代(最後)の藩主で、同藩初代藩知事。位階は従一位。
- ^ 上田正昭、津田秀夫、永原慶二、藤井松一、藤原彰、『コンサイス日本人名辞典 第5版』、株式会社三省堂、2009年 87頁。
- ^ 池田慶徳ヲ議定権中納言ニ任シ従二位ニ叙ス(太政類典・第1編・慶応3年~明治4年)、国立公文書館 デジタルアーカイブ
- ^ 田尻佐 編『贈位諸賢伝 増補版 上』(近藤出版社、1975年) 特旨贈位年表 p.2
- ^ 『官報』第7157号「叙任及辞令」1907年5月11日。
- ^ 池田家を継ぎ慶徳と改名したのち、昭徳の諱は異母弟(慶徳が水戸家を出た後に生まれた)の余八麿に付けられたが、こちらも後に改名して徳川昭武を名乗った。
- ^ 自分は水戸斉昭の子であり、また因州池田家は徳川準一門の扱いを受ける家であることから、「外藩」が国事に参画する状況は容認できず、幕府や有力親藩が主体的に攘夷を唱え、この政局に関わっていくべきというのが、慶徳の考え方だった。
- ^ 直接的には、8月16日に「松平慶徳は、二条家や幕府に通じて今度の攘夷親征を妨げ、奸計を巡らす大罪人である。速やかに天誅を加えるべきところ、烈公(斉昭)に免じて暫く猶予する」と京中に貼り紙され、慶徳が天誅の標的とされたことが引き金となった。黒部は単なる脅しと取り合わなかったが、驚愕した河田ら22名が直ちに行動に出たのである。家老の荒尾但馬が22名の宥免を求めて運動し、慶徳も彼らの誠心を酌み、穏便な処置に留めた。
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「池田慶徳」の続きの解説一覧
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- 2 池田慶徳の概要
- 3 生涯
- 4 系譜
- 5 偏諱を受けた人物
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