池田綱清とは? わかりやすく解説

池田綱清

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/03/02 01:08 UTC 版)

 
池田 綱清
池田綱清
時代 江戸時代前期 - 中期
生誕 正保4年12月24日1648年1月18日
死没 正徳元年7月4日1711年8月17日
改名 新五郎(幼名)、輝高、綱清
戒名 清源寺殿良宗常温大居士
墓所 鳥取藩主池田家墓所
官位 従四位下侍従伯耆守左近衛少将
幕府 江戸幕府
主君 徳川綱吉
因幡鳥取藩
氏族 因州池田家
父母 父:池田光仲
母:徳川頼宣の長女・茶々姫
兄弟 綱清仲澄九鬼隆律清定清勝
久留島通孝
南部重信の長女・式姫
遊姫
養子:吉泰
養女:豊姫(蜂須賀吉武室)
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池田 綱清(いけだ つなきよ)は、因幡鳥取藩の第2代藩主。

初代藩主・池田光仲の長男。幼名は新五郎、後に曽祖父・池田輝政より1字を取って初名の輝高(てるたか)を名乗った。官位従四位下、侍従伯耆守、左近衛少将

経歴

鳥取藩主池田家墓所にある池田綱清の墓

江戸にある鳥取藩藩邸で生まれる。明暦3年(1657年)、第4代将軍徳川家綱御目見し、寛文元年(1661年)には将軍の面前で元服を行い、そして家綱の偏諱を受けて綱清に改名。従四位下を叙任。寛文10年(1670年)、正室・式姫と婚姻する[1][2]

貞享2年(1685年)、39歳で家督を相続する[2][3]。しかし病弱であったため、父の光仲が後見人として政務を補助した。元禄6年(1693年)、光仲が死去した後は家老ら重臣の補佐を受けたため、光仲が心血を注いだ藩主親政は早くも崩れ、家臣団へ権力が移り、藩政の混乱を招くようになった(後述)。

綱清には息子がなかったため、元禄8年(1695年)、甥で鹿奴藩(鳥取東館新田藩)の初代藩主である弟・仲澄の嫡男長吉(後に輝清、吉泰と改名)を養嗣子に迎える[2][3]。元禄13年(1700年)に綱清は病気を理由に隠居し、吉泰に家督を譲った[2][3]。同年、弟の清定に1万5,000石を与え、若桜藩(西館)を立てた[3]

正徳元年(1711年)7月4日に死去した。法号は清源寺殿良宗常温大居士。綱清の墓は鳥取藩主池田家墓所にある[3]。なお、他の藩主の墓碑は亀趺の上に載っているが、徳川綱吉の「生類憐れみの令」に配慮し亀趺が無い。菩提寺龍峯山興禅寺

逸話

系譜

偏諱を受けた人物

脚注

参考文献

  • 財団法人史跡鳥取藩主池田家墓所保存会/作成 『史跡 鳥取藩主池田家墓所』(2006年3月31日刊行)
  • 藩主人名事典編纂委員会編『三百藩藩主人名事典 四』新人物往来社、1986年。
  • 工藤寛正編『江戸時代全大名家事典』東京堂出版、2008年。
  • 鳥取藩政資料研究会編『鳥取藩研究の最前線』鳥取県立博物館、2017年。




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