鳥取藩
鳥取藩
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 23:59 UTC 版)
天保14年(1843年)6月7日因幡国鳥取に鳥取藩士湯本信好の長男として生まれた。幼名は増之助。幼くして弟武彦と堀敦斎に儒学を学び、安達清風と交流した。 安政5年(1858年)3月11日藩学館温書司から教授助に進み、万延元年(1860年)3月11日句読方と改称、文久2年(1862年)8月22日句読方頭に進んだ。9月29日大小姓御雇となり、藩主の上京に随行し、年末安政の大獄犠牲者を祀る会合に出席し、文久3年(1863年)帰国し、1月26日句読頭に復帰した。2月18日上京し、4月10日孝明天皇の石清水八幡宮行幸において徳大寺公純随身を務めた。4月29日帰国し、9月7日浜坂台場警衛を命じられた。 元治元年(1864年)2月29日学校経義懸り討論方。7月3日長州藩御見舞使者として伊丹造酒之助に同行し、帰途上京し、7月28日池田徳定の帰国に随行した。8月21日退職後、12月9日句読頭に復帰し、慶応2年(1866年)3月15日から12月28日まで文場締役寮生懸りを兼務した。 明治元年(1868年)7月27日義衛隊二番組御雇。明治2年(1869年)10月27日総学局皇学寮中教正、11月18日大教正となり、皇学寮検査兼漢学寮詩文督促を兼ねたが、明治3年(1870年)8月29日廃校により退職した。
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