荒尾成尚
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/04/06 13:37 UTC 版)
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| 時代 | 江戸時代 | 
| 生誕 | 明和3年(1766年) | 
| 死没 | 文政6年1月2日(1823年2月12日) | 
| 改名 | 駒之助(幼名)→成高→成尚 | 
| 別名 | 修理、近江、内匠介(通称) | 
| 戒名 | 謙徳院殿俊翁大圓淨覺大居士 | 
| 墓所 | 鳥取県米子市の了春寺 | 
| 主君 | 池田治道→斉邦→斉稷 | 
| 藩 | 鳥取藩家老 | 
| 氏族 | 荒尾氏 | 
| 父母 | 父:荒尾成煕 | 
| 兄弟 | 成尚、鵜殿長泰、津田元謨 | 
| 妻 | 正室:幸子(池田政喬の娘) | 
| 子 | 成緒、成韶、成孝 | 
荒尾 成尚(あらお なりなお)は、江戸時代後期の鳥取藩家老。米子荒尾家8代。
経歴
明和3年(1766年)、鳥取藩家老荒尾成煕の長男として生まれる。
天明7年(1787年)9月、成熙の死去により家督相続し、米子城代となる。寛政元年(1793年)3月、幕府巡見使(石尾七郎兵衛、花房佐五郎、小浜平太夫)が米子を通過することなり、米子入りしてその供応にあたった。[1]。
寛政6年(1794年)2月、岡山藩家老池田政喬の娘と結婚する。同年12月、御職家老(執政家老)となる。寛政7年(1795年)7月、嫡男の駒之助(成緒)が誕生する。寛政8年(1800年)、御根取となる。
寛政12年(1800年)2月、藩主池田斉邦が将軍徳川家斉の面前で元服した際に、ともに登城し将軍に拝謁する。文化4年(1807年)8月、藩主斉邦死去により江戸に出府する。10月、新藩主となった斉稷が将軍家斉の面前で元服した際、ともに登城し将軍に拝謁する。
文政元年(1818年)8月、隠居して家督を成緒に譲る。文政6年(1823年)1月2日死去、享年57。
脚注
- ^ 『因府年表 続篇下』
参考文献
- 『因府年表』
関連項目
- 荒尾成尚のページへのリンク

 
                             
                    


