鳥取藩池田氏の治政
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1617年(元和3年)、池田光政の鳥取入府に伴い、家老・日置忠俊が城主となる。1628年(寛永5年)には鹿野城下の火災によって城の一部が焼ける被害に遭った。このとき、亀井茲矩が朱印船貿易で入手した香木で作らせた「唐木の小座敷」と呼ばれる一室が焼失したという。1640年(寛永17年)から1662年(寛文2年)にかけては播磨国宍粟騒動で改易された山崎城主・池田輝澄が堪忍料一万石で鹿野城下の光輪寺に居住した(当時の庭が残っている)。その後、1632年(寛永9年)に入部した池田光仲によって代官・佐藤知之が派遣されたが長くは続かず、『鹿野筆縋』によれば1644年(正保元年)2月に城の破却が行われたという。 1868年(明治元年)、鳥取池田家の支藩(新田藩)である東館新田藩3万石の藩庁が鹿奴(鹿野)陣屋に置かれ、同藩は鹿奴藩の名称で呼ばれることになる。しかし鹿奴藩は鳥取藩に付随する形式上の藩という性格が強く、鹿野に鹿奴藩主が来ることも、鳥取藩から独立した政庁が置かれることもなかった。翌1869年(明治2年)には鹿奴藩はみずから廃藩を行って鳥取藩に吸収された。
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