廃藩とは? わかりやすく解説

はい‐はん【廃藩】

読み方:はいはん

藩を廃すること。藩制廃止すること。


廃藩置県

(廃藩 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/09/14 04:58 UTC 版)

廃藩置県(はいはんちけん、旧字体廢藩置縣)は、明治維新期の明治4年7月14日1871年8月29日)に、明治政府がそれまでのを廃止して地方統治を中央管下のに一元化した行政改革である。ただし、沖縄県の近代史においては、琉球処分の一環として明治12年(1879年)に琉球藩を廃して沖縄県を設置したことを指す[1]#その他の異動を参照)。




「廃藩置県」の続きの解説一覧

廃藩

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/07/05 11:50 UTC 版)

米子藩」の記事における「廃藩」の解説

慶長14年1609年5月11日一忠20歳急死した一忠には3人の子供がいたが、領国継承認められず、中村氏改易となった。 翌慶長15年1610年7月19日美濃黒野藩主・加藤貞泰2万石の加増を受け、6万石米子入部する。貞泰は大坂の役において軍功挙げたことから、元和3年1617年)に伊予大洲藩に移され米子藩は廃藩となった

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廃藩

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/05 07:20 UTC 版)

川越藩」の記事における「廃藩」の解説

康英は慶応4年1868年)、新政府帰順することで藩論をまとめ、老中辞する上洛するが、新政府近江国飛地2万石を没収され謹慎処分とされた。それでも川越城の堀を埋め官軍ひたすら恭順することで、川越戦火回避することに成功した川越藩上野戦争から離脱した彰義隊分派の振武軍を、能仁寺戦い飯能戦争)で掃討した。明治2年1869年)、康英は所領守ろうと、家督養子の康載に譲り隠居した。康載はただちに版籍奉還願い出、わずか16日間の藩主であった。康載は知藩事となり、明治4年1871年廃藩置県迎え川越県となった以後県庁置かれ入間県熊谷県経て埼玉県編入された。なお、廃藩後松井松平家松平名字廃して松井復姓した。その後明治12年1879年)に康載は康英の実子康義に家督譲って松井家離籍し、康義は明治17年1884年)に子爵授けられた。一方、康載は明治19年1886年)に今度は旧安中藩板倉家養子入りして板倉勝観名乗り同家子爵授けられた。

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