蓮池藩
蓮池県
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/08 19:25 UTC 版)
明治4年7月14日(1871年8月29日)の廃藩置県では、旧蓮池藩の全域をもって蓮池県(はすいけけん、はすのいけけん)が定められた。県庁は蓮池城にある旧藩庁にそのまま置かれた。県域は、杵島郡8村、藤津郡13村、松浦郡1村、佐賀郡2村、神埼郡10村から構成されていた。『藩制一覧』によれば当時の県の人口は31,349人であった。 4ヶ月後の同年11月14日(1871年12月25日)に全国の県の統廃合が行われた。蓮池県は、旧佐賀藩の支藩であった小城県(旧小城藩)・鹿島県(旧鹿島藩)と、旧唐津藩の唐津県とともに伊万里県に統合となった。さらに翌年に伊万里県は佐賀県に改称した。 明治7年(1874年)には佐賀の乱が起きた。旧蓮池藩の藩士たちは、反乱軍に加わるべきかどうかで意見が分かれ、江藤新平・島義勇と面会した。両者とも、要衝である蓮池は絶対に乱に加わる必要があると主張し、さもなくば蓮池一帯を焦土と化すと強硬な態度に出た。このため蓮池の軍勢も反乱に加担することになったが、蓮池の隊は、佐賀城を脱出する政府軍(鎮台部隊)を友軍と誤認して見過ごしてしまい、政府軍による村への攻撃をゆるしてしまった。戦乱の終盤には蓮池に架かる橋を巡って激しい戦闘が起きており(境原の戦い参照)、その橋は「鎮台橋」と呼ばれている。まもなく乱が鎮圧されて蓮池の軍勢も解散した。この間、蓮池では10名の死者を出した。 このあと、佐賀県は解体されてほぼ全域が長崎県に編入された。明治16年(1883年)になって、旧佐賀県一帯があらためて長崎県から分割され、現在の佐賀県となった。
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