蓮池藩
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蓮池藩(はすのいけはん)は、佐賀藩の支藩。藩主家は蓮池鍋島家。
概要
立藩の時期は諸説ありはっきりしないが、江戸時代初期に初代佐賀藩主・鍋島勝茂の五男・直澄が佐賀藩領内の佐嘉郡・神埼郡・杵島郡・松浦郡・藤津郡において5万2000石(佐賀藩の内高)を与えられたことに始まる。当初、佐賀城三の丸に政庁を構えたが、後に蓮池(現佐賀市蓮池町)に陣屋を構えた。領地は陣屋が所在する佐賀郡・神埼郡の東側と、杵島郡・松浦郡・藤津郡の西側に分かれ[1]、西側領地は長崎街道の宿場町である塩田宿が統治の拠点となった[2]。
小城藩と同じく参勤交代を行っていた。享保15年(1730年)、参勤交代の免除を願い出たが、佐賀藩より却下された。
明治4年(1871年)、廃藩置県により蓮池県となる。その後、伊万里県・佐賀県・三潴県・長崎県を経て佐賀県に編入された。
藩主の鍋島家は明治2年(1869年)に華族に列し、明治17年(1884年)の華族令で子爵に叙せられた。
歴代蓮池藩主
蓮池藩家老
石井家、成富家、松枝家、峯家
脚注
- ^ “「佐賀県近世史料」第2編(支藩編)第3巻を刊行しました~蓮池藩に関する史料集の第一弾~”. 佐賀県 (2023年4月27日). 2023年7月11日閲覧。
- ^ “塩田津 / 佐賀県 -【JAPAN 47 GO】”. JAPAN 47 GO (2023年5月25日). 2023年7月11日閲覧。
外部リンク
先代 佐賀藩の一部 |
行政区の変遷 1642年以降 - 1871年 (蓮池藩→蓮池県) |
次代 伊万里県 |
蓮池県
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/08 19:25 UTC 版)
明治4年7月14日(1871年8月29日)の廃藩置県では、旧蓮池藩の全域をもって蓮池県(はすいけけん、はすのいけけん)が定められた。県庁は蓮池城にある旧藩庁にそのまま置かれた。県域は、杵島郡8村、藤津郡13村、松浦郡1村、佐賀郡2村、神埼郡10村から構成されていた。『藩制一覧』によれば当時の県の人口は31,349人であった。 4ヶ月後の同年11月14日(1871年12月25日)に全国の県の統廃合が行われた。蓮池県は、旧佐賀藩の支藩であった小城県(旧小城藩)・鹿島県(旧鹿島藩)と、旧唐津藩の唐津県とともに伊万里県に統合となった。さらに翌年に伊万里県は佐賀県に改称した。 明治7年(1874年)には佐賀の乱が起きた。旧蓮池藩の藩士たちは、反乱軍に加わるべきかどうかで意見が分かれ、江藤新平・島義勇と面会した。両者とも、要衝である蓮池は絶対に乱に加わる必要があると主張し、さもなくば蓮池一帯を焦土と化すと強硬な態度に出た。このため蓮池の軍勢も反乱に加担することになったが、蓮池の隊は、佐賀城を脱出する政府軍(鎮台部隊)を友軍と誤認して見過ごしてしまい、政府軍による村への攻撃をゆるしてしまった。戦乱の終盤には蓮池に架かる橋を巡って激しい戦闘が起きており(境原の戦い参照)、その橋は「鎮台橋」と呼ばれている。まもなく乱が鎮圧されて蓮池の軍勢も解散した。この間、蓮池では10名の死者を出した。 このあと、佐賀県は解体されてほぼ全域が長崎県に編入された。明治16年(1883年)になって、旧佐賀県一帯があらためて長崎県から分割され、現在の佐賀県となった。
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