鍋島勝茂とは? わかりやすく解説

鍋島勝茂

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/08/25 05:26 UTC 版)

 
鍋島 勝茂
鍋島勝茂((財)鍋島報効会蔵、寛文元年(1661年)奉納)
時代 安土桃山時代 - 江戸時代前期
生誕 天正8年10月28日1580年12月4日
死没 明暦3年3月24日1657年5月7日
改名 伊平太(幼名)、勝茂
別名 信茂、清茂
戒名 泰盛院殿澤圓良厚大居士
墓所 佐賀県佐賀市高伝寺
官位 従五位下信濃守従四位下侍従
幕府 江戸幕府
主君 徳川家康秀忠家光家綱
肥前佐賀藩
氏族 鍋島氏
父母 鍋島直茂彦鶴
養父江上家種
兄弟 勝茂忠茂、伊勢龍、千鶴、彦菊
正室戸田勝隆
継室高源院
側室:小城氏、花、岩(小西氏)
元茂忠直直澄直弘直朝、神代直長ほか
養子光茂彦宮
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鍋島 勝茂(なべしま かつしげ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将大名肥前佐賀藩主。

生涯

豊臣政権下の鍋島氏

天正8年(1580年)10月28日、鍋島直茂の長男として、石井生札の屋敷で生まれる。母は飯盛城主石井常延の次女・彦鶴。一時期、龍造寺隆信の次男・江上家種の養子になったこともある[1]

隆信の死後、龍造寺政家は、豊臣秀吉から肥前国7郡30万9902石を安堵されたが、朱印状は龍造寺高房宛となっている。鍋島直茂はうち3万石余(直茂・勝茂の合計高4万4500石)を与えられ[2] 、龍造寺氏領の支配を委任され実権を握った。

しかし高房が幼少であることから、筆頭重臣である鍋島直茂が代わって国政を行う状態という、家督と国政の実権が異なる状況が続いていた。そのため、鍋島家は正式な大名ではなかったわけであるが、勝茂は豊臣時代から既に大名世子としての扱いを受けていた。朝鮮出兵においても父・直茂が龍造寺軍の総大将として出陣している。

天正17年(1589年)、豊臣秀吉より豊臣姓を下賜された[3]慶長2年(1597年)からの慶長の役では父と共に渡海し、蔚山城の戦いで武功を挙げた。

関ヶ原

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは西軍に与し、伏見城攻めに参加した後、伊勢国安濃津城攻めに参加するなど、西軍主力の一人として行動した。しかし父・直茂の急使により、すぐに東軍に寝返り、立花宗茂柳川城小早川秀包久留米城を攻撃した。

関ヶ原本戦には参加せず、西軍が敗退した後に黒田長政閑室元佶や西本願寺の准如上人の仲裁で徳川家康にいち早く謝罪し、また先の戦功により龍造寺家は肥前国佐賀の本領安堵を認められた[4]。ただし、領内の戦後処理で勝茂の直轄領は9000石となった。徳川への配慮と東軍参加の家中諸将への示しをつける形式的な処分であるが[注釈 1]、結果的にのちに分家が勝茂を軽んじる要因になる[注釈 2]。また名代の軍勢が家康から直々に労いの言葉を得た龍造寺(後藤)茂綱には、勝茂を超す12,108石の大領を与えざるをえなかった。茂綱の子孫は龍造寺四家の一つとして発言力を増していく。

鍋島騒動から藩主へ

慶長12年(1607年)に龍造寺高房、後を追うように政家が死去すると、勝茂は幕府公認の下で跡を継いで、龍造寺家の遺領(検地による高直しで35万7千石。後述)を引き継ぎ佐賀藩主となり、父の後見下で藩政を総覧した。勝茂はまず龍造寺家から鍋島家への滞りない政権移行に従事し、龍造寺家臣団と鍋島家臣団の整理を行い、各家臣から起請文を改めて提出させ、内乱の防止に成功した[4]

このように龍造寺家から鍋島家への継承は、他家の同様な例と異なり、ほとんど血を見ずに成功したものの、「鍋島化け猫伝説」などの説話が巷間に流れ、勝茂は歌舞伎や講談では主家を乗っ取った悪役とされてしまっている。これには、龍造寺高房が佐賀藩の実権を取り返せないことに絶望して自害したとされる(真相は不明)こと、勝茂の一子が突然死したこと、また寛永年間に高房の子・龍造寺伯庵が佐賀藩の統治権の返還を執拗に幕府へ願い出たことなどによる。幕府はその都度伯庵の訴えを却下し、最後には江戸所払いにしたうえで、3代将軍・徳川家光の異母弟であり閣老の会津藩主・保科正之に50人扶持で永預けとした[注釈 3]。ただし、勝茂はこれらの件に対して、例えば一子の突然死後に半ば錯乱した父・直茂が巫女の占いを信じて家士数人を殺害すると、これを諌める書簡を江戸から送り、伯庵の訴えには穏便に処理するよう幕府に願い出たりしている。

一方で、旧龍造寺家臣団と鍋島譜代の家臣団のいずれにもほとんど粛清がなかったために、石高のほとんどは家臣団への知行分となってしまい、藩主の直轄領が6万石程度しか残らず、藩政当初から財政面において苦しむこととなった。このため佐賀藩ではその後、一貫して干拓など増収政策に取り組むこととなる。またこの間、検地を実施して35万7000石の石高があることを明らかにし、これに先立つ慶長7年(1602年)より佐賀城・蓮池城を近世城郭にふさわしい体裁を備えるべく築城(蓮池城は一国一城令のため破却)し、鍋島家統治の象徴とした。

慶長19年(1614年)からの大坂の陣では幕府方に属した。寛永14年(1637年)からの島原の乱に出陣するが、家臣が軍律違反を犯したため幕府に処罰された[注釈 4]

明暦3年(1657年)3月24日、死去。享年78。嫡孫の光茂が跡を継いだ。

勝茂甲冑と「青漆」

佐賀藩、鍋島家の伝世品を収蔵する佐賀市徴古館では、勝茂の甲冑「青漆塗萌黄糸威二枚胴具足」が所蔵されている。勝茂が島原の乱で着用したと伝わり、勝茂末子の神代直長が拝領し、その子孫の鍋島内記家に伝来した。青漆とは、漆に藍や石黄を混ぜて発色させる技法で、江戸時代中後期に考案されたとされる。なお青漆という名ではあるものの、実際の色は青ではなくである。

この甲冑の修復と複製品の作製が横浜市の甲冑師西岡文夫に発注されたが、江戸時代初期に青漆技法は存在しなかった可能性が高いなど作業過程で多くの疑問が生まれ、東京文化財研究所保存修復科学センターの北野信彦に科学的調査が依頼された。その結果、青漆ではなく西洋絵画の油絵具に近い技法で作製された塗料であることが明らかになった。近年の調査研究の結果、他の甲冑や障壁画で同様の例が発見されている[5][6][7]

系譜

なお、勝茂の子については「成人した子女のみ」を数え「七男六女」とし、長男・元茂、次男・忠直、三男・直澄、四男・直弘、五男・直朝、六男・超譽、七男・直長とする文献資料もある[8][注釈 5]

脚注

注釈

  1. ^ 勝茂は依然として嫡子(後継者)のままであり、藩主継承の際に父・直茂の直轄領も相続している。
  2. ^ 特に東軍参加の鹿島藩は宗家の勝茂と対立し、分離独立の騒動が起きている。wikipedia記事「鍋島正茂」参照。
  3. ^ 伯庵死後、その遺児を300石にて取り立て、子孫は現在も続いている。
  4. ^ 一説には原城攻撃の期日を1日やぶって攻撃したのは、勝茂自身とされる。
  5. ^ 例えば直朝については「九男」とする文献資料[9][10]と「五男」とする文献資料[8][11]がある。

出典

  1. ^ 『寛政重修諸家譜』。
  2. ^ 「龍造寺高房宛て豊臣秀吉朱印状写 (龍造寺藤八郎知行割之事)」(公益財団法人鍋島報效会)
  3. ^ 村川浩平『日本近世武家政権論』日本図書刊行会、2000年 p.39
  4. ^ a b 藤野保『佐賀藩の総合研究 藩制の成立と構造』吉川弘文館、1981年
  5. ^ 文化遺産オンライン『青漆塗萌黄糸威二枚胴具足』
  6. ^ nippon.com『戦国時代の武具を蘇生:甲冑師・西岡文夫』
  7. ^ 日本甲冑武具研究保存会『甲冑武具研究191号』』(2015年)
  8. ^ a b 初代佐賀藩主 鍋島勝茂公の13人の子供たちと、2代藩主になった孫”. 徴古館. 2024年8月25日閲覧。
  9. ^ 鍋島直朝」『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』講談社、コトバンク。2024年8月24日閲覧。
  10. ^ 黒田安雄「佐賀藩家臣団の構造(三)」『史淵』第116巻、九州大学文学部、1979年3月31日、59-83頁、doi:10.15017/2232304 
  11. ^ 佐賀市史:第二巻(近世編)』佐賀市、1977年7月29日、15頁https://www.city.saga.lg.jp/site_files/file/usefiles/downloads/s34624_20130321052852.pdf 

関連項目

先代
鍋島直茂
肥前鍋島氏当主
鍋島勝茂
次代
鍋島光茂

鍋島勝茂(なべしま かつしげ)

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AMAKUSA1637」の記事における「鍋島勝茂(なべしま かつしげ)」の解説

元茂の父親、光茂の祖父。元茂側と光茂側とに割れ家臣たちを中立立場見守っているが、嵐が過ぎ去るのを待ち、自ら行動しようとはしないタイプだった。

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