鍋島氏の台頭と蓮池城の普請
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「蓮池町」の記事における「鍋島氏の台頭と蓮池城の普請」の解説
天正12年(1584年)、龍造寺隆信は島津氏との沖田畷の戦いで討ち死にした。以後は、龍造寺家の重臣で隆信の義弟でもあった鍋島直茂が、主家を駕ぐ勢力となった。ただし、名目上は隆信の子龍造寺政家が龍造寺家の当主であり、鍋島氏の主君だった。その政家は佐賀城に住んだので、鍋島直茂は蓮池城を本拠とした。 まもなく、龍造寺政家は鍋島直茂を養子にする形で退き、直茂は事実上の大名として佐賀城に移った。蓮池城には、江上家を継ぐために勢福寺城の江上武種の養子となっていた江上家種(龍造寺隆信の実子)が入った。このときに、家種は神埼町城原の勢福寺城から家臣を引き連れ、蓮池城下に移住させた。これにより蓮池城の城下町には、旧来からあった「(蓮池)本町」に加え、「(蓮池)神埼町」や「(蓮池)城原町」(じょうばるまち)が新たに形成された。 なお直茂は、蓮池城を江上家種に委ねるにあたり、息子の鍋島勝茂を江上家種の養子とした。しかし江上家種は数年後の朝鮮出兵中に戦死し、この養子縁組は解消された。後に蓮池城では鍋島勝茂の子、鍋島元茂が庶長子として生まれている。 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いを経て、鍋島氏は事実上の佐賀藩の藩主となった。初代藩主には、鍋島直茂の子、鍋島勝茂が就いている。慶長7年(1602年)からは、佐賀城と、その南の守りの要として蓮池城の拡張整備を行った。蓮池城の造営は家老の鍋島生三が司り、天守閣、門塀、書院、膳部処などが建設された。勝茂の書状の文面などから、これらが一通り完成したのは慶長10年(1605年)10月だったと推測されている。 しかし元和元年(1615年)に一国一城令が出され、蓮池城の天守や櫓は破却されることになった。解体した資材は佐賀城に運ばれて二の丸や三の丸の建設に充てられた。
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