鍋島氏の台頭と蓮池城の普請とは? わかりやすく解説

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鍋島氏の台頭と蓮池城の普請

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/08 19:25 UTC 版)

蓮池町」の記事における「鍋島氏の台頭と蓮池城の普請」の解説

天正12年1584年)、龍造寺隆信島津氏との沖田畷の戦い討ち死にした以後は、龍造寺家重臣隆信義弟でもあった鍋島直茂が、主家を駕ぐ勢力となった。ただし、名目上隆信の子龍造寺政家龍造寺家当主であり、鍋島氏主君だった。その政家佐賀城住んだので、鍋島直茂蓮池城本拠とした。 まもなく、龍造寺政家鍋島直茂養子にする形で退き、直茂は事実上大名として佐賀城移った蓮池城には、江上家を継ぐために勢福寺城江上武種養子となっていた江上家種龍造寺隆信実子)が入った。このときに、家種は神埼町城原勢福寺城から家臣引き連れ蓮池城下に移住させた。これにより蓮池城城下町には、旧来からあった「(蓮池本町」に加え、「(蓮池神埼町」や「(蓮池城原町」(じょうばるまち)が新たに形成された。 なお直茂は、蓮池城江上家種委ねるにあたり息子鍋島勝茂江上家種養子とした。しかし江上家種数年後朝鮮出兵中に戦死し、この養子縁組解消された。後に蓮池城では鍋島勝茂の子鍋島元茂庶長子として生まれている。 慶長5年1600年)の関ヶ原の戦い経て鍋島氏事実上佐賀藩藩主となった初代藩主には、鍋島直茂の子鍋島勝茂就いている。慶長7年1602年)からは、佐賀城と、その南の守りの要として蓮池城拡張整備行った蓮池城造営家老鍋島生三司り天守閣、門塀、書院膳部処などが建設された。勝茂の書状文面などから、これらが一通り完成したのは慶長10年1605年10月だったと推測されている。 しかし元和元年1615年)に一国一城令出され蓮池城天守破却されることになった解体し資材佐賀城運ばれ二の丸三の丸建設充てられた。

※この「鍋島氏の台頭と蓮池城の普請」の解説は、「蓮池町」の解説の一部です。
「鍋島氏の台頭と蓮池城の普請」を含む「蓮池町」の記事については、「蓮池町」の概要を参照ください。

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