鍋島直正から東久世通禧の時代
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「開拓使」の記事における「鍋島直正から東久世通禧の時代」の解説
開拓使は、省と同格の中央官庁の1つである。北方開拓を重視する政府の姿勢の表れだが、初めの数年は力不足で、内実が伴いはじめるのは、明治4年(1871年)からであった。 開拓使の初代長官には、旧幕時代から北方の重要性を説いていた佐賀藩主鍋島直正が就任したが、彼は実務にとりかかる前に辞任した。東久世通禧が後を引き継ぎ、部下の判官とともに明治2年(1869年)9月に北海道に向かった。当時の人口、産業の中心は、箱館府が置かれていた箱館(函館)であったが、位置が南に偏りすぎているため、北海道の中央部に本庁を設けることになっていた。長官の赴任に同行した佐賀藩士島義勇首席判官は、銭函(現小樽市銭函)に開拓使仮役所を開設し、札幌で市街の設計と庁舎の建設を始めた。のちに「北海道開拓の父」とも呼ばれた島の計画は壮大であったが、厳冬の中で予算を急激に消費したこと等が理由で長官と対立し、志半ばで解任された。代わって赴いた岩村通俊判官の下で札幌の建設が続けられ、明治4年(1871年)5月に開拓使庁が札幌に移った。 開拓使の発足当時、中央政府の財政基盤は弱く、北海道の全域を統治する余力はなかった。そのため諸藩や団体、個人に呼びかけて北海道を分領し開拓させた。分領支配の実績は各地各様であったが、経験不足から低調な所が多かった。明治4年(1871年)8月20日に分領支配は廃止され、開拓使が館県(旧松前藩領)を除く全域を直轄統治することになった。
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