鍋島直正から東久世通禧の時代とは? わかりやすく解説

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鍋島直正から東久世通禧の時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 06:10 UTC 版)

開拓使」の記事における「鍋島直正から東久世通禧の時代」の解説

開拓使は、省と同格中央官庁1つである。北方開拓重視する政府姿勢表れだが、初め数年力不足で、内実伴いはじめるのは、明治4年1871年)からであった開拓使初代長官には、旧幕時代から北方重要性説いていた佐賀藩鍋島直正就任したが、彼は実務とりかかる前に辞任した東久世通禧後を引き継ぎ部下判官とともに明治2年1869年9月北海道向かった当時人口産業中心は、箱館府置かれていた箱館函館であったが、位置が南に偏りすぎているため、北海道中央部本庁設けることになっていた。長官赴任同行した佐賀藩島義勇首席判官は、銭函(現小樽市銭函)に開拓使仮役所を開設し札幌市街設計庁舎建設始めた。のちに「北海道開拓の父」とも呼ばれた島の計画壮大であったが、厳冬の中で予算急激に消費したこと等が理由長官対立し志半ば解任された。代わって赴いた岩村通俊判官の下で札幌建設続けられ明治4年1871年5月開拓使庁札幌移った開拓使発足当時中央政府財政基盤弱く北海道全域統治する余力はなかった。そのため諸藩や団体、個人呼びかけ北海道分領開拓させた。分領支配実績各地各様であったが、経験不足から低調な所が多かった明治4年1871年8月20日分領支配廃止され開拓使が館県(旧松前藩領)を除く全域直轄統治することになった

※この「鍋島直正から東久世通禧の時代」の解説は、「開拓使」の解説の一部です。
「鍋島直正から東久世通禧の時代」を含む「開拓使」の記事については、「開拓使」の概要を参照ください。

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