鍋島氏の台頭と石井氏
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天正12年3月24日、龍造寺隆信は沖田畷の戦いで横死し、石井氏からも嫡男家当主・石井大膳亮信易以下14名の武将が戦死した。隆信の戦死は外様の諸将や分国に動揺をきたして、龍造寺氏は一転して厳しい局面におかれることとなる。そのような中、龍造寺氏の血縁であり、なおかつ筆頭家老の地位にあった鍋島直茂が隆信の嫡男・龍造寺政家を補佐して、劣勢の挽回につとめた。 当時、直茂の采配を支えたのが外戚家門・石井氏で、一族の中核的人材を沖田畷の戦いで失ってはいたものの、石井壱岐守茂利・縫殿助茂清父子や、石井修理亮茂成、鍋島主水佑茂里(石井太郎五郎)・鍋島安芸守茂賢(石井孫六)兄弟、石井生札ら有為な人材が出て、直茂の与党となり活躍した。豊臣秀吉によって、直茂が龍造寺氏に代わって国政を担う頃である。 文禄・慶長の役では、直茂に従って、鍋島主水佑茂里、鍋島安芸守茂賢、石井縫殿助茂清、石井修理亮茂成らが出陣し、石井生札、石井六郎兵衛忠種が後方支援部隊を指揮した。一方、石井壱岐守茂利ら一門の18将が佐賀城留守居役として、直茂の留守を預かった。役後の領内の統治体制の改編においては、石井氏が積年にわたって労苦を惜しまず功績があったとの理由から、筑後方面からの侵略に対する防衛拠点として重視していた蓮池城を与えら、城代・城番に任ぜられ、石井壱岐守茂利のほか、石井孫左衛門尉重次・石井五郎右衛門尉正国・石井修理亮茂成が同城を守護した。 その後、政家の嫡男・龍造寺高房が、龍造寺氏の家督を相続すると、石井氏の鍋島主水佑茂里の長女瑞祥院が直茂の養女となって高房の正室に迎えられ、石井氏はさらに発展する。
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