肥前石井氏とは? わかりやすく解説

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肥前石井氏

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/06/07 19:07 UTC 版)

肥前石井氏
丸に三つ鱗 まるにみつうろこ 三山形 みつやまがた[注釈 1]
花杏葉 はなぎょうよう[注釈 2] 五つ木瓜 いつつもっこう[注釈 3] 鍔に小槌 かんにこづち[注釈 4] 唐花菱 からはなびしなど。
本姓 藤原北家九条流兼通流
桓武平氏良文流千葉氏流
家祖 石井忠国
種別 武家
士族
出身地 下総国猿島郡石井郷(現・茨城県坂東市岩井
主な根拠地 肥前国小城郡佐嘉郡(現・佐賀県小城市・佐賀市)
著名な人物 陽泰院
鍋島茂里
鍋島茂賢
石井鶴山
石井忠亮
石井亮一
石井筆子
など。
支流、分家 鍋島主水家(武家)
深堀鍋島家(武家)
凡例 / Category:日本の氏族

肥前石井氏(ひぜんいしいし)は、鎌倉時代の発祥と伝わり、室町時代から明治時代初期にかけて肥前国を根拠とした藤原姓武家士族である(肥州石井党[1])。とくに近世佐賀藩鍋島氏藩祖以来の外戚(藩祖鍋島直茂の正室で、初代藩主鍋島勝茂の生母である陽泰院の実家)として殊遇を享けた一族として知られ、藩の有力な門閥であった[注釈 5]。鍋島氏との多重の血縁関係から、鍋島氏の一族とされることもあり、石井一族中、「鍋島」の名乗りを免許された家もある[注釈 6]。 第57代陽成天皇の曾孫である左大臣藤原顕光の子孫を自称している。

本貫は下総国。本姓は藤原氏北家九条流)を称し、女系の血統から、下総国出身の千葉氏の後裔とも称した。

室町時代中期に、親族関係にあった宗胤流千葉氏(小城千葉氏)の下総国内の権益喪失により、下総国を退去し、その本拠地、肥前国小城郡に移った。

戦国時代には、鍋島氏とともに、戦国大名龍造寺家兼隆信の最古参の譜代重臣、功臣(水ヶ江譜代)[注釈 7]として勢力を拡大し、後に佐賀藩主になった鍋島氏の外戚・重臣として続いた。 なお、藩祖鍋島直茂の正室陽泰院や婿養子鍋島茂里(石井茂里)の実家であるほか、龍造寺隆信の叔母の嫁ぎ先、隆信の嫡孫高房の正室瑞祥院の実家でもあり、作家の滝口康彦は著書において「(鍋島の)家臣団中の名門」と記している。とくに石井茂里の鍋島氏への養子入りは、直茂の嫡男勝茂誕生以前であり、当初は茂里が鍋島氏の世嗣と定められていた。また、幕末には、第八代藩主治茂の孫鍋島総若を養嗣子に迎えて石井忠躬と名乗らせ、鍋島・石井両氏の親密な関係は後代まで及んだ。

石井党石井一門石井寄合衆と呼ばれる精強な武士団を率いて、戦国時代から江戸時代初期にかけて隆盛を極めた。

佐賀藩に伝わる武士道論書『葉隠』にもしばしば登場する一族で、明治に至るまで戦国時代の武家の気質・家風を伝えた一方、俳人・歌人や学者などの人物も輩出し、文武両道の家柄であった。

明治以降も日本の電話創始者石井忠亮(初代逓信省電信局長)、日本の知的障害者教育・福祉の創始者石井亮一滝乃川学園創立者・初代学園長)ら、国史に名を残す有為な人材をも輩出した。

姻戚には大隈重信中牟田倉之助武富時敏久米邦武らが名を連ねている。

起源

肥前国の石井氏は、室町時代中期の肥前国小城郡郡司総地頭)千葉教胤の家老石井忠國(式部大輔兼越後守)の子孫の一族である。この忠國は、関東出身で、千葉介玄孫にあたるとされる。

石井氏は、藤原氏北家九条流諸大夫京都から下総国に下向して、在庁官人となり、ほどなく猿島郡石井郷に土着して、鎌倉時代中期に石井の名字を称した。その後、下総国守護職千葉氏の被官になったとするが、詳しい由緒は明らかではない。

『石井系譜』(弘化4年(1847年)成立、佐賀県立図書館鍋島家文庫所蔵)によると、忠國は、関白太政大臣藤原兼通13代の後裔とし、第57代天皇陽成天皇の女系子孫にあたる。下総国猿島郡石井郷を本貫とする[注釈 8]。 また、下総国の在庁官人出身との伝承から、同じ藤原北家九条流で、平氏政権下の下総国の有力在庁官人であった藤原親盛親政父子の一族ではないかともいわれている。

忠國の曾祖母は、下総国守護職千葉介の娘(千葉宗胤の娘と伝わる)とされ、忠國は、千葉氏の内紛の影響を受けて、親族(父の再従兄弟)にあたる肥前国小城郡司千葉胤鎮(小城千葉氏)を頼って、下総国から肥前国に移住したという。

忠國は、その後、千葉胤鎮の弟胤紹に仕えて、その副将に抜擢され、胤紹の没後は、その甥千葉教胤の家老をつとめた。忠國の小城千葉家中での立身出世により、石井氏は肥前国佐嘉郡与賀郷飯盛村に領地を得て、その後の繁栄の礎を築いた。

忠國は、永享元年(1429年)に、飯盛村に妙光山本善寺(現在の常照院)を一族の菩提寺として建立している。

龍造寺氏・鍋島氏と同盟

石井忠國は、肥前国に移住してからは、小城郡庁近くの「石井屋敷」を本拠とした[注釈 9]太宰府天満宮に仕える小鳥居氏の娘を妻に迎え、嫡男忠保(式部大輔)を儲けた[注釈 10]

忠保の代には、応仁の乱の余波で主家の小城千葉氏が東西二家に分裂し、互いに抗争し、急速にその勢力を減退させると、当主忠保は、本拠地を「石井屋敷」から領地である佐嘉郡与賀郷飯盛村に移し、村内の飯盛城に入って、居館を構えた。 これにより、石井氏は、郡庁勤務の吏僚から、領地である飯盛村に土着して村を直接支配する在地領主(土豪)に発展していった。

一族を挙げて、飯盛村を中心に開墾を進め、佐賀平野南部の肥沃な穀倉地帯にある飯盛村一帯と、今津や相応津といった有明海に通じる津(河港)を支配し、豊かな財力と武力を築いた。

主家小城千葉氏の衰退により、石井氏は自存自衛を迫られ、忠保の跡を継いだ嫡男忠義(駿河守)は、小城千葉氏との主従関係を維持したまま、同じく千葉氏との関係が深く、飯盛村の北東に位置する水ヶ江城の城主で有力国衆龍造寺氏、隣村本庄村の土豪鍋島氏両氏と同盟した。この地縁による繋がりは、戦国時代に石井氏が飛躍する足掛かりを築くことになった。

そして、周辺の在地領主や地侍の人望が厚かった水ヶ江城龍造寺家兼の勢力の拡大と小城千葉氏の衰退により、同盟関係は、次第に龍造寺氏との主従関係に転化し、鍋島氏などとともに龍造寺氏を盟主に擁して、後に戦国大名龍造寺氏の家臣団の中核をなす「水ヶ江譜代」を形成することになった。

戦国時代

石井忠保の没後、家督を継いだのは、嫡男忠義であった。忠義には、5人の男子があり、嫡男は和泉守忠清、次男は石見守忠繁、三男は三河守義昌、四男は駿河守忠本、そして、五男は尾張守兼清(忠房)といった。この5人の兄弟は、いずれも、知勇・人格に優れた武将で、それぞれが石井嫡男家(和泉守家)石井二男家(石見守家)石井三男家(三河守家)石井四男家(駿河守家)石井五男家(尾張守家)を起こして、同族武士団(石井五家石井党)を形成した。

享禄3年(1530年)の田手畷の戦いにおいて、鍋島清久清房父子などと連合して、後世に伝説を残した「赤熊の奇襲隊」を率いて、苦戦する龍造寺家兼隊の危機を救ったことがきっかけで、鍋島氏とともに石井氏も龍造寺氏の重臣の地位を確固たるものにした。この合戦の功労によって、鍋島清房は龍造寺家純の娘華渓を娶り、石井の惣領忠清も家純の四女を継室に迎え、末男の兼清は家兼の曾孫にあたる於保宗易の娘を娶った。

しかし、龍造寺氏の勢力拡大を警戒する肥前国の国主少弐冬尚の家老馬場頼周の謀略によって、家兼は、冬尚やそれに従う国衆から排斥を受け、隣国の筑後国へ亡命する事態に遭う。 その後間もなく、家兼は本領を回復するが、そのとき家兼帰還の中心となったのが鍋島氏や石井氏らの「水ヶ江譜代」であった。鍋島氏・石井氏に加え、佐賀平野南部の土豪、地侍にとどまらず、百姓までもが蜂起して、家兼を迎えたという。こうして、鍋島氏と石井氏は龍造寺家中で一層重きをなすに至った。

龍造寺隆信の登場と石井氏 

龍造寺隆信の家督相続を主導

龍造寺家兼の没後、家兼の遺言によって、当時僧籍にあった曾孫円月(後の龍造寺隆信)が家督を相続した。当初、隆信の家督相続には、家臣団の中にも異論があったものの、石井兄弟の末弟兼清が隆信擁立に主導的な役割を果たした。兼清は、家兼の遺言を奉じ、当時、隆信が出家していた水ヶ江城下の宝琳院に一隊を率いて参上した。隆信の還俗を渋る住職を説き伏せ、そのまま隆信を奉じて、水ヶ江城内の兼清の屋敷に迎えた。兼清は、隆信の還俗・元服の儀式の一切を取り仕切り、隆信の家督相続を実現させたのであった。その後、隆信は、中国探題大宰大弐大内義隆の後見を得て、龍造寺氏の宗家筋の村中龍造寺氏をも相続することになる。

隆信追放

しかし、隆信の宗家相続に対し、宗家の重鎮土橋栄益が、豊後国の守護職大友宗麟の支持を得て、反旗を翻す。天文20年(1551年)、ときに大内義隆が家臣陶晴賢によって討たれた直後で、後ろ盾を失った隆信は筑後国に亡命する災難に遭う。2年後、隆信は復権することになるが、このときも、鍋島清房石井兼清が、佐賀平野南部の土豪・地侍らと連携し、隠密に隆信帰還の準備を進めた。隆信は筑後国を出発し、海路、肥前国佐嘉郡河副郷に上陸した。河副郷には、他の土豪・地侍とともに石井忠清が一族を率いて参陣し、そのまま佐賀城に向けて進発した。途中、敵方である高木氏や八戸氏に占拠されていた石井氏の居城飯盛城において、石井義昌・忠晴父子が指揮する一隊が奮戦して、城を奪還する。石井氏ら龍造寺勢は、さらに進撃を続け、遂には佐賀城を回復した。さらに隆信は、間髪入れず小田政光が拠る蓮池城に攻め込み、またしても石井義昌が敵方の勇将江口源世入道を一騎討ちで戦いを挑み、これを討ち取るなど、石井氏は隆信復権に多大な功績を挙げた。

龍造寺隆信勢力拡大期

永禄6年(1563年)には、龍造寺隆信は、肥前国三根郡中野城主馬場鑑周と、鑑周に擁立された少弐政興を攻めた。この合戦では、石井隊が先陣をつとめ、石井忠次源次郎(忠修)父子に率いられた小隊が一番槍の声をあげて、決死の突入を図り、攻撃の突破口を開く武勲があった。この戦いは、先陣の石井隊は損耗が大きく、隊の将士の戦傷者も多数出た。戦後、隆信は、石井の惣領石井蔵人感状を贈った。

元亀元年(1570年)の大友親貞との今山の戦いでは、奇襲部隊の主将鍋島直茂石井忠信(石井一幽軒)が従ったほか、南里氏、鹿江氏、太田氏とともに筑後国との国境付近にも部隊を展開し、海路侵攻してきた大友勢を迎撃・撃退した。さらに孤立した龍造寺長信が籠る蓮池城救援のため、石井氏が派兵した遊撃隊が、攻城軍の隙をついて兵糧米300俵を城内に運び込み、隆信を喜ばせた。鍋島直茂が今山で大友親貞を討ち取ると、石井党の総大将石井蔵人率いる本隊が納富信景隊に合流し、大友勢の敗残部隊の殲滅にあたった。一方で、石井孫三郎率いる小隊は、大友方の田尻鑑種隊と高尾村(現・佐賀市巨勢町大字高尾)で交戦。多勢に無勢の中善戦し、田尻隊を撤退に追い込むが、主従で玉砕した。

龍造寺隆信全盛期

以降、龍造寺隆信の副将鍋島直茂が登場してきたこともあり、隆信は肥前国の平定を進めた。隆信の版図は肥前国の他、筑後国肥後国筑前国豊前国対馬国壱岐国まで及び、「五州二島の太守」を自称した。その一方で、龍造寺軍の中核部隊を担っていた石井氏からは、多くの戦死者を出した。隆信は、石井氏の忠節と犠牲に報い、飯盛村一帯に加え、佐留志領(現在の佐賀県杵島郡江北町)を与えて、石井氏に知行地の加増をたびたび行い、天正期には、1,180町歩(おおよそ11,800石)の広大な所領を有することとなった。この知行規模は、龍造寺一族、大身国衆の外様家臣を除き、家中第三位(一位は鍋島氏、二位は納富氏)の大身であった。

この頃、石井氏と鍋島氏の連携が一層強化される。元亀2年(1571年)、石井忠清の嫡男常延の次女彦鶴姫(後の陽泰院)が鍋島直茂の正室(継室)に迎えられた他、天正7年(1579年)には、直茂の長女伊勢龍姫(後の月窓院、母は前室高木氏)の婿養子として、石井信忠の嫡男で、彦鶴姫の大甥にあたる石井太郎五郎(後の鍋島茂里)が迎えられた。また、もともと直茂の従姉を祖母(鍋島清久の孫娘)に持つ石井茂利(直茂の従姪孫)が直茂の実兄鍋島信房の養女を娶るなど、石井氏と鍋島氏は一族化していった。

天正11年(1583年)になると、龍造寺隆信の威勢にも陰りが見え始める。筑後国柳河城蒲池鎮漣の謀殺は、配下の家臣、とくに外様衆の顰蹙を買う結果になった。鎮漣の謀殺は、鍋島直茂、石井四郎左衛門(信忠)らに率いられた精兵が、龍造寺領内移動中の鎮漣一行を急襲した一件で、後に攻め手の大将の一人であった四郎左衛門は、臣従している他国衆への不信感から謀殺という挙に出た龍造寺氏の行く末を案じる言葉を残したという。

鍋島氏の台頭と石井氏

天正12年3月24日龍造寺隆信沖田畷の戦いで横死し、隆信の旗本隊の中核として本陣備えに着いていた石井隊も壊滅した。隊を指揮していた石井信易以下14人の一族の将が戦死した。『北肥戦誌』では、石井安芸守(信忠)、石井新右衛門、石井越後守、石井兵部少輔(忠正)、石井四郎左衛門(信忠)、石井内蔵允、石井大膳亮(信易)、石井源右衛門(家利)、石井宮内少輔(忠秀)、石井九郎左衛門、石井源左衛門、石井帯刀、石井左衛門尉(忠明)、石井四郎兵衛が戦死したと記す。

隆信の戦死は外様の諸将や分国に動揺をきたして、龍造寺氏は一転して厳しい局面におかれることとなる。そのような中、龍造寺氏の血縁であり、なおかつ筆頭家老の地位にあった鍋島直茂が隆信の嫡男龍造寺政家を補佐して、劣勢の挽回につとめた。

当時、直茂の采配を支えたのが外戚石井氏で、一族の中核的人材を沖田畷の戦いで失ってはいたものの、石井茂利茂清父子や、石井茂成鍋島茂里(石井太郎五郎)・鍋島茂賢(石井孫六)兄弟、石井生札ら有為な人材が出て、直茂の与党となり活躍した。沖田畷の戦いの敗戦後、家臣団や領内が動揺していたところ、これらの一族の将が集まって、直茂と政家の御前で、「我ら石井一族は、此の度の合戦で、一族の主だった者共を喪いましたが、我々生き残った老若の者たちで、直茂公、政家公を盛り立てます」と誓い、両公を勇気づけたと伝わっている。ときに豊臣秀吉によって、直茂が龍造寺氏に代わって国政を担う頃である。

文禄・慶長の役では、直茂に従って、鍋島茂里、鍋島茂賢、石井茂清、石井茂成らが出陣・渡海し、石井生札、石井忠種が兵站部隊を指揮し、後方支援を展開した。生札、忠種の指揮は見事で、豊臣秀吉の上聞に達した。一方、石井茂利ら一族18将が佐賀城留守居役として、政家の許で直茂の留守を預かった。

その後、政家の嫡男龍造寺高房が、龍造寺氏の家督を相続すると、石井氏の鍋島茂里の長女瑞祥院が義祖父直茂の養女となって高房の正室に迎えられた。

藩政時代

関ヶ原の戦いでは、鍋島勝茂龍造寺高房は西軍に与し、その指揮のもと、石井茂成ら石井隊も伏見城安濃津城攻めに加わったが、西軍敗北により、国許の直茂は、早急に勝茂に軍を引き上げさせ、徳川家康に謝罪のうえ、勝茂とともに西軍の立花宗茂を攻めた。そのとき、軍略を思案し、先陣をつとめたのは、鍋島茂里・茂賢兄弟であり、海路柳川に侵攻した水軍の将は、石井茂利と石井生札がつとめた。

戦後の領内の統治体制の改編においては、石井氏が積年にわたって労苦を惜しまず勲功があったとの理由から、直茂の強い意向で、筑後方面からの侵略に対する防衛拠点として重視していた蓮池城を石井氏に与え、本丸城代に石井孫右衛門(重次)、駕輿丁出城番に石井五郎右衛門(正国)、小曲出城番に石井壱岐守(茂利)、蒲田江出城番に石井又左衛門(茂成)が着任し、この4将が元和元年(1615年)の一国一城令で同城が破却されるまで守備にあたった。

江戸幕府の成立以降、龍造寺政家・高房が相次いで没し、鍋島勝茂を初代藩主とする鍋島佐賀藩が誕生する。ときに石井氏からは、沖田畷の戦い以降、直茂体制を支えてきた、鍋島茂里・茂賢兄弟(石井二男家)、石井茂利・茂清父子(石井二男家)、石井茂成(石井嫡男家)、石井生札(石井三男家)が、藩政の中枢に進出した。

この頃、龍造寺氏から国政を預かった鍋島直茂の権力基盤は弱く、直茂は龍造寺氏の外孫ではあるものの、龍造寺氏の一族が健在の中、苦労が絶えなかった。石井氏は、龍造寺氏の有力家臣であるほか、直茂の妻(陽泰院)、婿(鍋島茂里)の実家であったため、鍋島氏の一門として扱われ、直茂の石井氏に対する信頼は絶大であった。

こうして、石井氏は、鍋島氏の外戚として隆盛を誇ったが、初代藩主勝茂は、石井氏に対し、石井の名字は一門限り名乗らせること、継嗣がいない場合は同族のうちから養子をとること、他家から養子をとる場合は、人物を吟味し、教育を徹底すること。軍団編成は従来どおり同族のみで一隊(組)(石井寄合衆)を編成すること等を通達している。なお、佐賀藩の軍制では、15組の軍団編成がなされ、石井氏はそのうち鍋島主水組、深堀鍋島組、石井寄合の3組を預かり、鍋島主水と深堀鍋島は、「先手組」とされ、戦場では先陣をつとめるのを常とし、石井寄合は、初代藩主勝茂の母方の一門という由緒から、留守居の「在国組」とされた。

佐賀藩初代藩主鍋島勝茂は、領内の統治構造の改革に着手し、鍋島氏による支配体制の強化を図る。 旧主龍造寺氏一族の勢力の抑制、藩主直轄領(蔵入地)の再編、隆信時代に膨張した家臣団の整理、地方知行制の見直しの諸改革を進めた。 その中で、石井氏も例外ではなく、代々支配してきた佐嘉郡与賀郷飯盛村一帯については、佐賀城の南西近くに位置することから、勝茂が召し上げて蔵入地とし、石井氏には改めて蔵入地の佐嘉郡川副郷の一部を割いて鹿江村を中心に代替地として与えた。この川副郷への転封も、藩主外戚であるが故の例外的措置で、勝茂は、石井氏の諸将を御前に召し出し、「当地は海辺防衛の軍事上の重要拠点であり、かつ、龍造寺隆信公、鍋島清房公が筑後国から帰還した由緒の土地である」ために、特に石井氏に与えられたと伝えている。

島原の乱では、石井正之石井正能が、石井孝成率いる石井寄合衆から離れて遊撃任務に就き、早駆けして敵陣一番槍の快挙を成し、佐賀藩の名誉を高めた。

第3代藩主鍋島光茂以降、家臣団序列が確定し、直茂・勝茂父子の近親者や側近衆による側近政治は終焉し、石井氏の藩内における政治的地位は相対的に低下するが、鍋島茂里は横岳鍋島家、鍋島茂賢は深堀鍋島家として、家老職を世襲した。石井茂利・茂清父子は、石井壱岐守家(縫殿家)として着座の家格に定着し、石井茂成は石井又左衛門家として、支藩蓮池藩家老職を世襲した。 石井氏は、藩内ではとくに奉行代官といった行政事務のほか、藩主家の家政職に就くことも多かった。

第8代藩主鍋島治茂のときには、漢学者石井鶴山が侍講として政策顧問に抜擢され、古賀精里とともに治茂の藩政改革を主導した。

元禄年間、藩主直参として58家が存在し、同族で2万石にも及ぶ知行を有した。その他にも、支藩や多久家等大配分(自治領)に仕えた家も多数あった。

幕末・明治

幕末佐賀藩は西南雄藩の一角を占め、明治維新に主導的な役割を担ったが、戊辰戦争では、官軍海軍副参謀となった石井富之助、海軍陽春丸艦長石井忠亮が軍功を挙げ、明治天皇よりその功を賞される栄誉を得たほか、日本海軍初の観艦式(海軍天覧)おいて、受閲艦隊の総指揮官をつとめた。また、蓮池藩第8代藩主鍋島直与の三男石井忠躬は、蓮池藩兵を率いて出羽国に出陣し、武功を挙げている。

明治政府では、石井忠亮が初代逓信省電信局長をつとめ、電話事業の創設に尽力し、後に元老院議官和歌山県知事をつとめた他、石井忠恭大審院判事、貴族院議員に、石井常英横浜地方裁判所長、台湾総督府覆審法院長官をつとめた。軍人も多く輩出し、石井義太郎海軍少将)、石井虎雄陸軍少将)の2名の提督将軍を輩出。また、民間では、石井亮一が日本初の知的障害者福祉・教育施設滝乃川学園を創立するなどの活躍をみせている。

主要家系

特徴

石井五家は、当初、各家各戸に嫡庶の差が殆どない特異な展開となっていた。
家系の嫡庶や経済力の強弱による主従関係ではなく、血縁による連帯関係で武士団が形成された。
戦国時代は、知行を一族で共同保有していたのも特徴的で、おそらくは一族有力者の合議制で、一族としての意思決定、資源・資産の分配が行われていたものと思われる。藩政時代になって家禄は戸別に配分されたが、分家を生じる都度、家禄を分割しているため、嫡流家(宗家)は藩政時代僅か250石取りの中士階層にあった。
一方、分家筋が功労により大身となり、上層家臣に進出し、一族の指導的立場を世襲しており、嫡庶に関わらず、実力主義が一族内で共有されていたことが窺える。
この現象は、戦国時代に遡ってみられ、すでに龍造寺隆信の時代に、石井兄弟の長兄忠清の没後、一族の惣領は、隆信の意向で、忠清の嫡男常延ではなく、忠清の甥で、石井四男家(駿河守家)の石井蔵人が任ぜられ(『北肥戦誌』)、戦国時代、一族の指導者は家系よりも人物が重視されていた。その後も、蔵人の娘婿にあたる石井重次(石井嫡男家の分家伊予守家当主)、孫婿の石井茂成(石井嫡男家の分家又左衛門家初代当主)が惣領の役割を担っている。そのため、一門を代表して文武の実務を取り仕切る者を惣領とし、嫡流家当主は、宗家として、陽泰院の実家であることも相まって一門の象徴的中心としてのみ機能した。
藩政時代、大身(家老2家、着座1家)を輩出した石井二男家(石見守家)が一族の指導的立場になった要因として、『佐賀県史料集成』第17巻所収の「石井家文書」の解題では、沖田畷の戦いで、本来、一族の指導的立場になるはずの石井嫡男家(和泉守家)から多くの青壮年の戦死者があったためであると指摘している。
また、既述のとおり、藩政時代の各戸別に家禄が配分されたがために、一族内に経済格差が生じたことに加えて、藩当局による家臣団の秩序化が進み、石井壱岐守家の当主を寄親とし、石井一族を構成員(寄子)とする軍団編成がなされ(石井寄合衆)、寄親・寄子関係が生じ、同家が事実上の惣領家の役割を果たした。
その他、佐賀藩初代藩主鍋島勝茂は、母方の石井氏を優遇し、石井家系に属する者以外の石井名字使用の禁止、他の家系から養子をとることの制限等を命じている。
後代の藩主も石井氏の末端の分家まで取り立てて、その結果、藩主に連なる門閥でありながら、家禄が米9石という微禄の分家まで出現したが、それらも身分(中士格)で遇された。
こうした一族の特徴的な展開は、石井氏が、戦国時代から明治の廃藩に至るまで一族の団結が強かったと表される所以である。

五家の概要

  • 石井嫡男家(和泉守家、家祖:石井忠清
    • 石井和泉守家(藤左衛門家):宗家。家禄250石。分家に石井四郎左衛門家、石井新五左衛門家など。
    • 石井伊予守家(清左衛門家):独礼。家禄375石。分家に石井市左衛門家など。
    • 石井又左衛門家:元家老、後に蓮池支藩世襲家老。家禄900石。分家に石井六郎左衛門家など。藩政初期の石井寄合衆大組頭。幕末に鍋島直与の四男石井忠躬を当主に迎えている。
  • 石井二男家(石見守家、家祖:石井忠繁
    • 鍋島主水家:家老。家禄7500石。分家に石井織部家、石井伝兵衛家、石井清兵衛家。
    • 深堀鍋島家:家老。深堀邑主。家禄6000石。
    • 石井壱岐守家(縫殿家):元家老、後に着座。家禄1250石。分家に石井弥七左衛門家。藩政初期から廃藩までの石井寄合衆大組頭。
    • 石井孫三郎家:着座格。家禄230石。
  • 石井三男家(三河守家、家祖:石井義昌)
    • 石井生札家:元家老。家禄は始め1025石、後に100石。分家に石井只右衛門家など。
  • 石井四男家(駿河守家、家祖:石井忠本)
    • 石井駿河守家(八右衛門家):家禄287石5斗。戦国時代の石井党惣領。
    • 石井又右衛門家:着座格。家禄187石5斗。
  • 石井五男家(尾張守家、家祖:石井兼清
    • 石井尾張守家(藤兵衛家):多久邑元家老、後に多久邑馬乗通(上士)。家禄52石5斗。
    • 石井六兵衛家:家禄180石2斗5升。
    • 石井鶴山家:藩主侍講。家禄72石。

石井氏出身の著名な人物

石井氏の主な姻戚

家臣・与力

  • 金持氏:肥前国佐嘉郡の地侍。もとは伯耆国の名族である。石井忠義の正室は金持保広の娘。
  • 飯盛氏:肥前国佐嘉郡与賀郷飯盛村の土豪石井忠清の前室は、飯盛肥前守の娘。
  • 阿蘇氏肥後国の阿蘇氏の一族阿蘇良茂が、肥前国佐嘉郡与賀郷飯盛村に流れて、石井常延の孫婿となった。後に石井氏を名乗り、一族化した。
  • 熊谷氏熊谷直実の子孫を名乗る次兵衛は、故あって石井氏の許に身を寄せ、石井権太夫の猶子となって石井次兵衛と名乗った。後に熊谷姓に復し、佐賀市の願正寺の住職を世襲した。
  • 前田氏:肥前国杵島郡佐留志城主。龍造寺氏の直参であるが、石井氏が佐留志領主となった際、与力となった。この前田氏出身の女性が、陽泰院の老女として長く仕えている。

菩提寺

石井氏は、「千葉の一族」と形容されるだけあって、族祖石井忠國曾祖伯父にあたる千葉胤貞が外護者となった日蓮宗中山門流法華経寺光勝寺などに代表される宗派)の有力門徒であった。そのため、石井氏は複数の日蓮宗中山門流の寺院を建立している。

系譜

実線は実子、点線(縦)は養子、点線(横)は婚姻関係。
藤原兼通 平常兼
 
 
 
 
 
顕光 千葉常重
 
 
 
 
 
顕忠 常胤
 
 
 
 
 
忠通 胤正
 
 
 
 
 
忠輔 成胤
 
 
 
 
 
忠衡 胤綱
 
 
 
 
 
石井忠光1 時胤
 
 
 
 
 
忠俊2 頼胤
 
 
 
 
 
忠正3 宗胤
 
 
 
 
 
忠成4
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
忠元5
 
 
 
忠家6
 
 
 
忠国7
 
 
 
忠保8
 
 
 
忠義9
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
忠清10 忠繁 義昌 忠本 兼清
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
嫡男家 二男家 三男家 四男家 五男家

嫡男家

忠清10
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
常延11 忠家 忠信
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
常忠12 賢次 陽泰院 清左衛門家
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
信易13 信忠 常永 忠明 百武茂兼 松瀬孫八 茂成
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
忠易14 清次 賢顕 七郎右衛門 沢辺常寿
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
藤左衛門家 清房 清信 (略)
 
 
 
 
 
清信 探玄
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
(4代略) 作一 成富庄吉
 
 
 
 
 
清慎 利雄
 
 
 
 
 
忠躬[2] 七郎右衛門家
 
 
 
忠世
 
 
 
忠夫
 
 
 
又左衛門家

二男家

忠繁
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
忠高 忠次 忠尊
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
忠俊 忠修 信忠 正国
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
鍋島茂里 鍋島茂賢 正則
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
茂宗 犬塚三四郎 茂里 正證
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
武興 宗貞 信宗 武明 茂春
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
直朗[3] 織部家 伝兵衛家 清兵衛家 茂久
 
 
 
 
 
茂和 茂厚
 
 
 
 
 
茂親 茂陳
 
 
 
 
 
茂延[4] 茂雅
 
 
 
 
 
茂明 茂矩
 
 
 
 
 
横岳鍋島家 茂長
 
 
 
茂勲
 
 
 
深堀鍋島家

三男家・四男家・五男家

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
義昌 忠本 兼清
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
忠晴 彦十郎 茂忠 (略)
 
 
 
 
 
 
 
生札 忠貫
 
 
 
 
 
 
 
如自 式猷
 
 
 
 
 
 
 
正能 (略) 文橘
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
氏之 氏利 忠驍 藤兵衛家
 
 
 
 
 
 
 
氏久 (略) 忠泰
 
 
 
 
 
 
 
(略) 広氏 亮一
 
 
 
 
 
 
 
英勝 成徳[5] 又右衛門家
 
 
 
富之助
 
 
 
生札家
  1. ^ 佐賀県立図書館鍋島家文庫所蔵『茂里譜』
  2. ^ 肥前蓮池藩主鍋島直与の四男。
  3. ^ 肥前小城藩主鍋島元茂の次男。
  4. ^ 倉町鍋島家・鍋島敬文の子。
  5. ^ 佐賀藩士・北島政長の次男。

脚注

注釈

  1. ^ 佐賀県立図書館鍋島家文庫『石井系譜』(1847年)所収石井壱岐守家の系図に家紋として三山形、花菱と記載されている。
  2. ^ 佐賀県佐賀市にある天佑寺の石井家の墓塔にみられる。
  3. ^ 石井二男家に連なる横岳鍋島家やその分家石井織部家、石井伝兵衛家、石井清兵衛家は、この紋を使用している。横岳鍋島家に伝来する当主の肖像画の衣類に染め上げられた紋も五つ木瓜紋である。
  4. ^ 長崎県長崎市深堀町の菩提寺深堀鍋島家の墓塔等にこの紋が刻まれている 。
  5. ^ 寛政重修諸家譜』(1879-1801年)所収「鍋島氏系図」の鍋島直茂勝茂の条
  6. ^ 佐賀県立図書館鍋島家文庫『石井系譜』(1847年)所収「石井二男家系図」鍋島茂里茂賢の条
  7. ^ 多久郷土資料館所蔵の『水江臣記』の石井氏の条には、隠居して水ヶ江龍造寺家を興した龍造寺康家石井忠義が奉公したと記載がある。
  8. ^ 『石井系譜』によれば、兼通のあと、顕光、顕忠、忠通、忠輔と続き、建長2年(1250年)の8月、忠衡のときに下総国猿島郡石井郷に下向し、その嫡男忠光の代に初めて石井名字を称したとする。更に忠俊、忠正、忠成、忠元、忠家と続いて忠國に至る伝説的系譜を伝えている。
  9. ^ 財団法人滝乃川学園1940年に刊行した『石井亮一伝』では、学園創立者の石井亮一(石井四男家又右衛門家の出身)の家系が紹介されているが、先祖の小城郡内での居所の跡地は、後世まで「石井屋敷」と称されたとする。
  10. ^ 『石井系譜』によれば、忠國の室は「小鳥居信光」の娘と記す。小鳥居氏は菅原道真の末裔で、筑前国太宰府天満宮安楽寺別当ないしは留守職をつとめた家系。

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