水江臣記
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/16 14:46 UTC 版)
多久市郷土資料館の『水江臣記』によると、下総国安部野城主・石堂式部大輔忠正入道禅心の嫡男・式部大輔忠成が、三浦合戦(宝治合戦か)に14歳で出陣した際、陣中に一羽の鳩が飛来し、近くの井戸の中に舞い降りて行ったという。合戦で汚れた軍旗(一説には血刀とも)をその井戸で洗い、再び合戦に臨んだところ、見事勝利を収めたというので、その吉事に因み、「石堂」の家名を「石井」に改めたとしている。この忠成の曾孫が式部大輔越後守忠國である。 だが、実際のところ、『石井系譜』、『水ヶ江臣記』ともに、傍証できる一次史料が存在せず、真偽の程は明らかではないが、下総国(現在の千葉県・茨城県)には、現在に至るまで石井姓が多くみられる上、鎌倉時代後期の蒙古襲来に伴って、守護職の千葉氏が分国の肥前国小城郡に家臣団を随えて移動していることから、石井氏が下総国に発祥し、千葉氏との縁故で肥前国に移った一族であることはおおよそ事実と推定できる。
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