石井忠義とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 石井忠義の意味・解説 

石井忠義

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/21 17:12 UTC 版)

 
石井 忠義
時代 戦国時代
生誕 不明
死没 不明
別名 忠吉(『葉隠』)[1]
戒名 金理院殿妙光日明大居士[2]
墓所 佐賀県佐賀市 常照院
官位 駿河(受領名)
主君 九州千葉氏龍造寺康家家兼
氏族 肥前石井氏藤原氏
父母 父:石井忠保、母:於保鎮宗の娘
正室:金持保広の娘
忠清忠繁、義昌、忠本、兼清、高平加賀守室、片田江家定室、久保修理亮室、金持某室、前山某室
特記
事項
『石井系譜』(佐賀県立図書館鍋島家文庫所蔵)によれば、文明2年(1470年)8月7日に88才で死去したとされるが[3]、誤りと推測されている。
テンプレートを表示

石井 忠義(いしい ただよし)は、戦国時代武将九州千葉氏および龍造寺氏の重臣[4]。千葉氏の家臣石井式部大輔忠保の嫡男。肥前国佐嘉郡飯盛城主。

来歴

佐賀県立図書館鍋島家文庫所蔵の『石井系譜』によれば、父は九州千葉氏の家臣・石井式部大輔忠保。母は国衆・於保鎮宗の娘とされる。肥前石井氏の祖である祖父・石井越後守式部大輔忠国は、千葉介の玄孫で、肥前国小城郡司・千葉胤紹や千葉教胤の家老に立身出世した人物である。

千葉氏が内紛により勢力の衰退をみせると、父・忠保は、小城千葉城下の石井屋敷を引き払い、知行地の肥前国佐嘉郡飯盛村に土着して、飯盛城主になり、独立傾向を強めた。

父・忠保の没後、家督を継いで飯盛城主となった忠義は、千葉氏直参の身分を保ちながら、佐賀城主・龍造寺康家と、分家した家兼の父子と懇意になった。

忠義には、嫡男・和泉守忠清(嫡男家)、二男・石見守忠繁(二男家)、三男・三河守義昌(三男家)、四男・駿河守忠本(四男家)、五男・尾張守兼清(五男家)がいたが、それぞれに一家を立てさせて(石井五家)、石井党という同族武士団を形成して、鍋島氏とともに龍造寺氏を佐嘉郡一帯の旗頭として擁立した。

正室は、佐嘉郡の地侍・金持尾張守保広の娘。

なお、『葉隠』では、「石井駿河守忠吉(忠義)、当国石井の元祖」とし、祖父・越後守式部大輔忠国 との混同が見られる。

脚注

[脚注の使い方]

出典

  1. ^ 『葉隠』では石井氏の由緒として「元祖は、駿河守忠吉なり」と記す。
  2. ^ 『石井系譜』忠義の項。
  3. ^ 佐賀県立図書館鍋島家文庫所蔵『石井系譜』の忠義の項に記載
  4. ^ 多久市立郷土資料館所蔵『水江臣記』の石井氏の項に、忠義が龍造寺康家に初めて奉公したとある

参考文献




英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「石井忠義」の関連用語

石井忠義のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



石井忠義のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの石井忠義 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS