系図考察
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/23 09:43 UTC 版)
義継以前は三浦氏嫡流系図を参照のこと 義継(石井太郎) 重義(大隅下向)1 重信(中務丞)2 次郎 三郎 四郎 五郎 六郎 七郎 女子 女子 無極 (嫡男家) (波須和) (市木) (中俣) (奈良迫) (久見木) (濱田) (田代氏室) (肥後氏室) (清水寺和尚) 久重3 嫡男 義次 孝義4 義長 元義(忠義)5 五郎右衛門 女子 常陸(井上氏) 女子 女子 重義 義仍(義忠)6 玄蕃允 義春 義治7 藤七兵衛 義定 子孫不明 小五郎 義辰(石見守) 義高 平次郎 義次(佐土原石井祖) 石井氏は辺田七人衆(内海に面して辺田の七人の豪族を指したもの。石井、肥後、伊地知、池袋、廻、敷根、上井を指す)の一人として、約二百年間、垂水城主として在ったことなどから庶流もかなりあったと考えられるが、系図からは庶流として波須和氏、井上氏しか確認できない。つまり、石井氏系図には、三代久義から六代重義までが、直系しか記載されていないため、詳細を知ることが出来ないためである。佐土原石井家に伝来した「平姓石井氏系図」では、石井氏嫡男家は5代元義で途絶え、6代重義を肝付兼重との合戦で戦死した2代重信の弟次郎(波須和氏)の曾孫に記載してある。後に小浜合戦で死亡した平次郎や佐土原藩士となった義次が波須和姓を名乗っていることや文献等に登場する義仍等の嫡流と思われる名前が系図に見当たらないことから、おそらく、鹿児島県立図書館所蔵の「三浦石井氏系図」を含め、現在公表されている石井氏系図は二男家のものであろうかと思われる。嫡家の系譜は、総州家、奥州家、薩州家の家督争いに巻き込まれ没落した石井氏の歴史を考えると、その筋の検閲を受け削られた可能性もある。あるいは、未公表だが鹿児島県内の石井姓を名乗る家の中に嫡家の家系図が伝来しているのかも知れない。 系図から、高城の城主である肥後氏や禰寝氏の分出支族である田代氏と婚姻関係があったことが分かる。次郎は波須和、三郎は市木を知行。四郎は中俣、七郎は浜田を号しているが、それぞれ、中俣氏(石井氏以前に中俣を治めていた豪族)、浜田氏(藤原姓禰寝氏冨山氏一門で大姶良城の支城である浜田城城主)に養子に行ったのか、石井氏流中俣氏、浜田氏が別系統で存在したのか不明である。また、五郎の奈良迫、六郎の久見木は割譲地の名称と思われるが、どこに在ったのか不明である。いずれにせよ禰寝氏の一族である田代氏や浜田氏と婚姻関係があることから、下大隅下向の初期の段階で、禰寝氏領内に進出した石井氏があったことが推定される。なお、伊地知氏の家譜に「重持弟筑前守持季室は垂水の石井殿の女子」と記載があり、伊地知氏と婚姻関係があったことが確認できる。 5代「元義」は島津忠国の一字をもらったものと思われるが、「忠義」と改名している。鹿児島県の第三部中世関係史料(古文書)に掲載されている永享六年(1434年)の福昌寺の文書に「石井忠義寄進状」があるが、この文書の中で父道享とあり、系図によると道享は元義の父孝義の法名であることから忠義と元義は同一人物であることが分かる。なお、元義は永享十年(1438年)福昌寺造営の奉加帳に石井 平 元義(花押)と署名しているが、「石井忠義寄進状」では平石井平次郎忠義(花押)と署名している。 諸家大概に「石井中務少輔義忠入道旅世は忠国公より立久公忠昌公忠治公迄は四代御家老にて候」という記述があるが、中務少輔義忠(入道して旅世と号す)とは「義仍」のことであると考えられる。永正11年(1514年)から永正13年(1516年)にかけての犬追物手組に石井中務少輔は頻繁に登場し、石井旅世は永正18年(1521年)の島津家老臣連署式日次第(坊津での三宅国秀事件の影響か琉球紋船の事、琉球より進物の事等記載がある)に老臣の一人として連署している。
※この「系図考察」の解説は、「大隅石井氏」の解説の一部です。
「系図考察」を含む「大隅石井氏」の記事については、「大隅石井氏」の概要を参照ください。
- 系図考察のページへのリンク