奥州家とは? わかりやすく解説

奥州家

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/07/24 16:02 UTC 版)

奥州家(おうしゅうけ)


奥州家

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 15:50 UTC 版)

細川氏」の記事における「奥州家」の解説

細川氏庶流一つ和氏・頼春の従兄弟細川顕氏陸奥守就任したことが由来とされ、大外様ともいわれた家系のこと。顕氏の兄弟それぞれ武勇優れ活躍したが、彼らは顕氏に先立ちこの世を去る。残った顕氏は讃岐土佐などの領国化に励み実力をつけ、嫡流和氏死後、その弟の頼春と並んで細川氏実力者となる。顕氏は観応の擾乱活躍するも、やがて頼春と前後して死去する。顕氏の実子の繁氏は顕氏の領国受け継ぎ有力者として武功を積むも急死するその後は、和氏の子・業氏が後を継いで存続したが、讃岐など領国は頼春の子・頼之に押さえられたため、以後代々当主京兆家協力的な立場をとった。 細川満経は、京兆家細川満元片腕として政界活躍したまた、業氏は3代将軍足利義満、業氏の子孫の晴経は13代将軍・足義輝加冠の際の理髪役を務めるなど、有力な幕臣であった細川藤孝の子忠興戦国時代末期当主輝経の養子となって奥州細川家継承したといい、近世大名肥後熊本藩細川家は奥州家の末裔とされることもある。また、近年になって孝が和泉上守護家とは関係ないとするとする説も出されているが(「和泉上守護家」「宇多源氏佐々木大原氏系参照)、奥州家の養子である忠興の子孫は細川氏系譜確実につながっていると言える。 もっとも、孝が室町幕府滅亡後に織田信長属して名字長岡改めてからは、忠興もまた「長岡与一郎」と称し本能寺の変の後孝が隠居するとその所領である丹後12万石相続しているので、実際に孝の継承者である。 細川輝経は後に妻の弟である松井康之忠興重臣)のもとに招かれたが、丹後田辺城戦い関ヶ原の戦い一環)の際、康之が九州派遣されていたため居城久美浜城に不在の間に西軍誘い乗って城を乗っ取り西軍敗北後に罪を問われ自害したという(『松井家記』)。 細川奥州家歴代当主 細川頼貞細川俊氏の子細川顕氏 細川繁氏 細川業氏細川和氏の子細川満経 細川持経 細川成経 細川尚経 細川尹経 細川晴経 細川輝経 細川忠興細川藤孝の子初代小倉藩主)?

※この「奥州家」の解説は、「細川氏」の解説の一部です。
「奥州家」を含む「細川氏」の記事については、「細川氏」の概要を参照ください。

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