奥州合戦と降伏
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/02 16:07 UTC 版)
その後、奥州藤原氏と源頼朝の間で奥州合戦が勃発。長兄の国衡は8月8日の阿津賀志山の戦いに参戦し3日間に渡り善戦するも敗北、8月10日に戦死した。泰衡は国衡敗北・戦死の知らせを受けて逃亡するが9月3日に数代の郎党である河田次郎の裏切りに遭い滅亡する。高衡は9月18日に下河辺行平を通じて降伏し捕虜となった。そのため、秀衡の6人の息子かつ奥州合戦に参戦した3人の秀衡の息子(国衡、泰衡、高衡)の中では奥州合戦を唯一生き延びた人物となり、鎌倉に護送された後、相模国に配流されたが、後に赦免され、梶原景時の取り成しで暫くは鎌倉幕府の客将のような存在であったと言われる。なお、相模国は梶原氏の所領であり、その関係で景時が高衡を取り成したとも考えられるがはっきりしない。そして、水田が少なく、関東武士団には統治が難しい気仙郡(宮城県北部、岩手県南部沿岸、現在の陸前高田市)を任されている。また、高衡の領地「本吉郡」には、源頼朝の死後、北条時政らに追われた、景時、梶原景季ら、梶原一門が梶原神社、早馬神社を中心に匿われている。これは頼朝が東北全域(特に安倍氏以来の北部)を支配できなかった証拠であり、この統治の為に高衡は生かされたと考えることもできるが不明である。
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