奥州合戦と樋爪一族とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 奥州合戦と樋爪一族の意味・解説 

奥州合戦と樋爪一族

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/05 14:49 UTC 版)

樋爪季衡」の記事における「奥州合戦と樋爪一族」の解説

『吾妻鏡』によれば源頼朝奥州攻め行った文治5年1189年)の9月4日頼朝軍が紫波郡差し掛かった聞いた樋爪俊衡(比爪法師)は、居館樋爪館)を焼き払って逃げ落ちた。これを追うために頼朝三浦義澄、義連、義などを遣わし同日に陣岡(現・紫波町の陣ヶ岡公園)に陣を構えた11日頼朝は陣岡を引き払い厨川柵向かったが、15日太郎俊衡入道が弟の五郎季衡、息子太田冠者師衡、次郎兼衡、河北冠者忠衡、季衡の息子新田冠者経衡などを連れて厨川頼朝陣所降伏の意を示して訪れた年老いた俊衡の姿を見た頼朝は彼を哀れに思い家臣八田知家預けたが、俊衡は法華経唱える以外は一言も話さなかった。翌16日信心深かった知家から俊衡の様子伝えられ頼朝は、それまで処置迷っていたが、本領の比爪を安堵することに決め18日頼朝は俊衡などの処置について京に伺い使者を向かわせた。 10月19日頼朝鎌倉への帰途宇都宮二荒山神社立ち寄り戦勝祈願のため荘園一つ寄進することを誓ったといい、爪の一族をその職に就けた誰がその職に就いたかは記されていない)。 12月6日頼朝は俊衡以外の者についての配流先の案を立てると京に飛脚を向かわせ、同月26日18日付で京の朝廷より案の通り宣下下されたその内容以下の通り相模国 - 平泉藤原高衡と俊衡の息子・師衡と俊衡の弟である季衡の息子・経衡、隆衡(系図に無い) 伊豆国 - 景衡(系図に無い) 駿河国 - 爪兼衡 下野国 - 樋爪季衡

※この「奥州合戦と樋爪一族」の解説は、「樋爪季衡」の解説の一部です。
「奥州合戦と樋爪一族」を含む「樋爪季衡」の記事については、「樋爪季衡」の概要を参照ください。


奥州合戦と樋爪一族

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/05 14:47 UTC 版)

樋爪氏」の記事における「奥州合戦と樋爪一族」の解説

『吾妻鏡』によれば源頼朝奥州攻め行った文治5年1189年)の9月4日頼朝軍が紫波郡差し掛かった聞いた樋爪俊衡(比爪法師)は、居館樋爪館)を焼き払って逃げ落ちた。これを追うために頼朝三浦義澄、義連、義などを遣わし同日に陣岡(現・紫波町の陣ヶ岡公園)に陣を構えた11日頼朝は陣岡を引き払い厨川柵向かったが、15日太郎俊衡入道が弟の五郎季衡、息子太田冠者師衡、次郎兼衡、河北冠者忠衡、季衡の息子新田冠者経衡などを連れて厨川頼朝陣所降伏の意を示して訪れた年老いた俊衡の姿を見た頼朝は彼を哀れに思い家臣八田知家預けたが、俊衡は法華経唱える以外は一言も話さなかった。翌16日信心深かった知家から俊衡の様子伝えられ頼朝は、それまで処置迷っていたが、本領の比爪を安堵することに決め18日頼朝は俊衡などの処置について京に伺い使者を向かわせた。 10月19日頼朝鎌倉への帰途宇都宮二荒山神社立ち寄り戦勝祈願のため荘園一つ寄進することを誓ったといい、爪の一族をその職に就けた誰がその職に就いたかは記されていない)。 12月6日頼朝は俊衡以外の者についての配流先の案を立てると京に飛脚を向かわせ、同月26日18日付で京の朝廷より案の通り宣下下されたその内容以下の通り相模国 - 平泉藤原高衡と俊衡の息子・師衡と俊衡の弟である季衡の息子・経衡、隆衡(系図に無い) 伊豆国 - 景衡(系図に無い) 駿河国 - 爪兼衡 下野国 - 樋爪季衡

※この「奥州合戦と樋爪一族」の解説は、「樋爪氏」の解説の一部です。
「奥州合戦と樋爪一族」を含む「樋爪氏」の記事については、「樋爪氏」の概要を参照ください。


奥州合戦と樋爪一族

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/05 14:50 UTC 版)

樋爪俊衡」の記事における「奥州合戦と樋爪一族」の解説

『吾妻鏡』によれば源頼朝奥州攻め行った文治5年1189年)の9月4日頼朝軍が紫波郡差し掛かった聞いた樋爪俊衡(比爪法師)は、居館樋爪館)を焼き払って逃げ落ちた。これを追うために頼朝三浦義澄、義連、義などを遣わし同日に陣岡(現・紫波町の陣ヶ岡公園)に陣を構えた11日頼朝は陣岡を引き払い厨川柵向かったが、15日太郎俊衡入道が弟の五郎季衡、息子太田冠者師衡、次郎兼衡、河北冠者忠衡、季衡の息子新田冠者経衡などを連れて厨川頼朝陣所降伏の意を示して訪れた年老いた俊衡の姿を見た頼朝は彼を哀れに思い家臣八田知家預けたが、俊衡は法華経唱える以外は一言も話さなかった。翌16日信心深かった知家から俊衡の様子伝えられ頼朝は、それまで処置迷っていたが、本領の比爪を安堵することに決め18日頼朝は俊衡などの処置について京に伺い使者を向かわせた。 10月19日頼朝鎌倉への帰途宇都宮二荒山神社立ち寄り戦勝祈願のため荘園一つ寄進することを誓ったといい、爪の一族をその職に就けた誰がその職に就いたかは記されていない)。 12月6日頼朝は俊衡以外の者についての配流先の案を立てると京に飛脚を向かわせ、同月26日18日付で京の朝廷より案の通り宣下下されたその内容以下の通り相模国 - 平泉藤原高衡と俊衡の息子・師衡と俊衡の弟である季衡の息子・経衡、隆衡(系図に無い) 伊豆国 - 景衡(系図に無い) 駿河国 - 爪兼衡 下野国 - 樋爪季衡

※この「奥州合戦と樋爪一族」の解説は、「樋爪俊衡」の解説の一部です。
「奥州合戦と樋爪一族」を含む「樋爪俊衡」の記事については、「樋爪俊衡」の概要を参照ください。


奥州合戦と樋爪一族

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/05 14:51 UTC 版)

樋爪館」の記事における「奥州合戦と樋爪一族」の解説

『吾妻鏡』によれば源頼朝奥州攻め行った文治5年1189年)の9月4日頼朝軍が紫波郡差し掛かった聞いた樋爪俊衡(比爪法師)は、居館樋爪館)を焼き払って逃げ落ちた。これを追うために頼朝三浦義澄、義連、義などを遣わし同日に陣岡(現・紫波町の陣ヶ岡公園)に陣を構えた11日頼朝は陣岡を引き払い厨川柵向かったが、15日太郎俊衡入道が弟の五郎季衡、息子太田冠者師衡、次郎兼衡、河北冠者忠衡、季衡の息子新田冠者経衡などを連れて厨川頼朝陣所降伏の意を示して訪れた年老いた俊衡の姿を見た頼朝は彼を哀れに思い家臣八田知家預けたが、俊衡は法華経唱える以外は一言も話さなかった。翌16日信心深かった知家から俊衡の様子伝えられ頼朝は、それまで処置迷っていたが、本領の比爪を安堵することに決め18日頼朝は俊衡などの処置について京に伺い使者を向かわせた。 10月19日頼朝鎌倉への帰途宇都宮二荒山神社立ち寄り戦勝祈願のため荘園一つ寄進することを誓ったといい、爪の一族をその職に就けた誰がその職に就いたかは記されていない)。 12月6日頼朝は俊衡以外の者についての配流先の案を立てると京に飛脚を向かわせ、同月26日18日付で京の朝廷より案の通り宣下下されたその内容以下の通り相模国 - 平泉藤原高衡と俊衡の息子・師衡と俊衡の弟である季衡の息子・経衡、隆衡(系図に無い) 伊豆国 - 景衡(系図に無い) 駿河国 - 爪兼衡 下野国 - 樋爪季衡

※この「奥州合戦と樋爪一族」の解説は、「樋爪館」の解説の一部です。
「奥州合戦と樋爪一族」を含む「樋爪館」の記事については、「樋爪館」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「奥州合戦と樋爪一族」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「奥州合戦と樋爪一族」の関連用語

1
34% |||||

2
16% |||||

3
10% |||||

奥州合戦と樋爪一族のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



奥州合戦と樋爪一族のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの樋爪季衡 (改訂履歴)、樋爪氏 (改訂履歴)、樋爪俊衡 (改訂履歴)、樋爪館 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS