奥州合戦以前の事跡
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/02 16:07 UTC 版)
秀衡死後4代目となった次兄の泰衡は文治5年(1189年)閏4月30日に源義経を討ち、それに前後して、高衡を除く弟達(忠衡、通衡、頼衡)を殺害している。6月13日、高衡が義経の首を鎌倉に持参し、和田義盛と梶原景時が実検した(吾妻鏡)。なお、高衡が泰衡に殺害されなかった理由は上記のように、高衡が荘司を務めていた本吉荘が外交上、重要な拠点であったことや高衡自身が泰衡に同調して泰衡派となり、忠衡といった義経派と対立していたということが推測できるが、それらを傍証する史料が皆無である為、不明としか言いようがない。
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