南北朝期の混乱
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南北朝時代、九州探題として今川貞世(了俊)が九州へ下向すると、祁答院氏は他の渋谷一族である東郷氏、鶴田氏、入来院氏、高城氏と共に幕府方についた。ただし、渋谷一族内部は必ずしも足並みが揃っておらず、永和3年/天授3年(1377年)の了俊による南九州国人一揆参加の求めに祁答院氏や東郷氏の一族が応じる反面、入来院氏など応じない者もまたあった。またこの頃、7代重茂は出水の豪族大重悪四郎の軍勢を撃退し、さらに下城(現・宮之城町)を奪い勢力を拡大している。 明徳2年(1392年)、南北朝は合一されるが守護島津氏が総州家と奥州家とに分かれて対立に及ぶ。渋谷一族もこの争いに巻き込まれ、祁答院氏、東郷氏、入来院氏、高城氏は総州方に、鶴田氏は奥州方にと分かれて争い始めた。この争いにより重茂の次男重義が討ち死にしている。争いはやがて総州家が優勢となり、応永8年(1401年)に鶴田氏が没落、渋谷一族は四氏となった。以後、渋谷一族は領主権維持のため奥州家と総州家の間を渡り歩くようになった。それが落ち着きを見せるのは、総州家が奥州家に降伏した頃で、以降守護職は奥州家が相続すると決した。しかし、永享4年(1432年)に守護島津忠国が日向国山東の伊東氏攻略に失敗すると、渋谷一族を中心とした国人らによる国一揆が勃発、一揆は一時的に収束するが文安年間の初め頃に再び蜂起する。ただし、一揆は守護方により鎮圧され、渋谷一族は断絶の憂き目を見ぬよう島津氏に従う道を選んだ。
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南北朝期の混乱
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「東郷氏 (薩摩国)」の記事における「南北朝期の混乱」の解説
南北朝時代、九州探題として今川貞世(了俊)が九州へ下向すると、東郷氏は他の渋谷一族である祁答院氏、鶴田氏、入来院氏、高城(たき)氏と同様に守護島津氏と共に幕府方に着く。しかし、了俊と島津氏の関係が水島の変により悪化すると、島津氏と対立するようになる。但し、永和2年(1376年)に了俊が参画を求めた「第二次南九州国人一揆」には、渋谷一族間での所領争いのために参加が鈍る有様でもあった。 やがて島津氏が、総州家と奥州家とに分かれて対立すると、渋谷一族もこの争いに巻き込まれ、東郷氏と祁答院氏、入来院氏、高城(たき)氏は総州方に、鶴田氏は奥州方にと分かれる。争いは総州家の優勢に終わり、応永8年(1401年)に鶴田氏が没落、薩摩の渋谷一族は四氏となった。東郷家ら渋谷一族は一時勢力を盛り返した奥州家に寝返るが、応永18年に再び総州家と結託、奥州家の島津元久を陣没せしめた。ところが、元久の後を継いだ島津久豊が優勢となると一転して総州家を攻撃、やがて総州家は奥州家に降伏、守護職は奥州家の相続に帰した。このように渋谷一族は、両家を渡り歩き領主権維持に腐心し続けた。 9代重明の代となると、ようやく東郷姓に定着する。永享4年(1432年)、守護島津忠国が日向国山東の伊東氏攻略に失敗すると、渋谷一族を中心とした国人らによる国一揆が勃発、当然ながら東郷氏もこれに参画した。一揆は一時的に収束したが、文安年間の初め頃に渋谷一族は再び国一揆を起こす。これに対し、これまで対立していた島津忠国・島津持久兄弟が和睦、両氏による一揆鎮圧が行われ、国人らは大きくその威を削がれる。伊集院氏・牛屎氏・和泉氏などが独立勢力としては断絶させられる中、渋谷一族は辛うじて国人勢力でいられ続けるも、所領に対して段銭を徴収するための「算田」の改訂を、厳しい基準値にて受け入れざるを得なかった。その一方で、島津宗家を継いだ立久は渋谷一族含む国人の懐柔も怠らなかったため、一時的ながら薩摩国は穏やかとなった。
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