南北朝期の小山氏の守護補任に関する論争とは? わかりやすく解説

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南北朝期の小山氏の守護補任に関する論争

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/06 00:14 UTC 版)

小山氏」の記事における「南北朝期の小山氏の守護補任に関する論争」の解説

鎌倉時代初期小山朝政以来建武政権期に小山秀朝・朝氏(朝郷)に至るまで小山氏によって下野守護職が継承されたことについては異論出されていないが、その後小山義政守護補任までの経緯論争がある。 諸国守護補任について体系化した佐藤進一1337年小山城陥落時に小山氏一時下野守護更迭され高師直任じられたと推定した1980年代に入ると、新川武紀が佐藤説の一部修正し観応の擾乱後に仁木頼章小山氏の乱以後上杉憲方結城基光補任され、さらに小山持政以後しばらくは(乱後結城氏によって再興された)小山氏世襲になったこととした。 これに対して磯貝富士男が嘉吉元年9月5日1441年9月20日)付の小山持政口宣案記された「依為当国守護、追先例、宜任下野守」により、南北朝時代以後下野守護下野守補任される慣例存在しており、下野守補任の記録がない小山氏政守護には任じられず、反対に同時期に下野守であった宇都宮氏綱守護であったとした。これを受けて新川自説修正し宇都宮氏綱下野守であった時期小山氏政守護職権として下野島津氏への恩賞申請をしていること、宇都宮基綱小山義政両名下野守在任重複している時期があったことから小山氏(氏政―義政)と宇都宮氏(氏政―基綱)の半国守護制確立していたとした(ただし、小山宇都宮両氏半国守護説は渡辺世祐関東中心足利時代研究』(1926年以来存在していた)。また、旧説の上方に代わって従来守護代思われていた木戸法季(貞範)を正式の守護とした。 さらに永和3年11月17日天授3年/1377年12月18日)付で鎌倉円覚寺造営のために棟別銭徴収命じ関東管領奉書存在(「円覚寺文書」)が注目されている。これは、小山義政宇都宮基綱両方同日付で発給され、ともに宛先を「下野守」としていること、守護の権限とされていた棟別銭両方命じられていることである。佐藤進一後述松本一夫江田郁夫は守護権力及ばない力武家にも棟別銭徴収許可したものと解したが、磯貝富士男や新川武紀はこれを下野国に2名の守護がいた証拠として捉えている。 その後松本一夫江田郁夫がこれらの説を批判して小山氏の乱によって小山義政守護更迭されるまでは原則的に小山氏世襲(秀朝―朝氏―氏政―義政)が維持されており、宇都宮氏からの守護補任はなかったとする説を出した松本小山氏側から江田宇都宮氏側からこの問題追及しているが共通する指摘が多い。その要点として、 磯貝説の根拠なる口宣案の「先例」は、下野守護下野守補任された事例多かったという指摘はなっても、全ての下野守護下野守であった断定する証拠にはならない(さらに持政の下野守補任に関して文安3年11月24日付の口宣案存在しており、磯貝根拠とする文書偽文書可能性もあるとする)。例え木戸法季・結城基光下野守護であった下野守ではなかった。さらに磯貝説で下野守護とされている宇都宮氏綱自身1352年下野守から伊予守補任されたことは足利尊氏御教書などから判明しており、当の氏綱自身伊予守署名をした文書発給しているが、磯貝説ではこのことに関する説明がつかなくなる。 小山朝氏から氏政にかけての小山氏南北陣営からの誘いがもっとも盛んであった時期である。もし、この時期小山氏守護から更迭すれば、同氏南朝方に寝返るリスクの方が大きい。また、実際に同氏最終的に南朝方に寝返ってはおらず小山氏守護から更迭する理由存在しない宇都宮氏綱観応の擾乱戦功上野越後守護に補任されているが、仮にこの段階で下野1国もしくは半国守護であれば2.5もしくは3ヶ国の守となってしまう。室町幕府から見れば外様下野1国も掌握していない宇都宮氏このような待遇与えられる理由不明で、むしろ小山氏が握る本国下野守護代替として両国守護与えられたと考えられる円覚寺造営を巡る棟別銭は隣の常陸国においては大掾氏小田氏に対して命じ文書残されているが、当時同国守護佐竹氏であり、棟別銭徴収者が全て守護であったわけではない(勿論、鎌倉府宇都宮基綱棟別銭徴収下野守与えることで、下野守護である小山義政に対して牽制行った結果両者争い発展した可能性はある)。 半国守護説についても小山氏の乱後に木戸法季や結城基光継承した守護職小山氏持っていた半国分しかないとすれば依然として残り国の守護であることに変わりがない筈の宇都宮氏当主宇都宮満綱以後)が守護職継承できなかった理由が全く示されていない。 などの指摘行い小山氏守護地位失ったのは小山義政反乱原因であり、それ以前下野国最大勢力となっていた宇都宮氏といえども同国守護には補任されなかったと論じた。なお、松本守護である小山氏建武政権国司兼ねたことを足がかりとして国衙権力機構継承したこと、勢力的小山氏上回る宇都宮氏那須氏には干渉できず、加えて国内には足利庄など室町幕府御料所下野守護補任説のある高師直仁木頼章足利庄代官であった可能性がある)も含まれていたために守護権力行使できない地域相当数存在し、それが小山氏の持つ守護権力対す制約になったとしている。

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