南北朝期の小山氏の守護補任に関する論争
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「小山氏」の記事における「南北朝期の小山氏の守護補任に関する論争」の解説
鎌倉時代初期の小山朝政以来、建武政権期に小山秀朝・朝氏(朝郷)に至るまで小山氏によって下野守護職が継承されたことについては異論が出されていないが、その後の小山義政の守護補任までの経緯に論争がある。 諸国の守護補任について体系化した佐藤進一は1337年の小山城陥落時に小山氏が一時下野守護を更迭され高師直が任じられたと推定した。1980年代に入ると、新川武紀が佐藤説の一部を修正し、観応の擾乱後に仁木頼章、小山氏の乱以後に上杉憲方・結城基光が補任され、さらに小山持政以後しばらくは(乱後に結城氏によって再興された)小山氏の世襲になったこととした。 これに対して、磯貝富士男が嘉吉元年9月5日(1441年9月20日)付の小山持政宛口宣案に記された「依為当国守護、追先例、宜任下野守」により、南北朝時代以後下野守護は下野守に補任される慣例が存在しており、下野守補任の記録がない小山氏政は守護には任じられず、反対に同時期に下野守であった宇都宮氏綱が守護であったとした。これを受けて新川は自説を修正し、宇都宮氏綱が下野守であった時期に小山氏政も守護の職権として下野島津氏への恩賞申請をしていること、宇都宮基綱と小山義政の両名の下野守が在任が重複している時期があったことから小山氏(氏政―義政)と宇都宮氏(氏政―基綱)の半国守護制が確立していたとした(ただし、小山・宇都宮両氏半国守護説は渡辺世祐『関東中心足利時代之研究』(1926年)以来、存在していた)。また、旧説の上杉憲方に代わって従来守護代と思われていた木戸法季(貞範)を正式の守護とした。 さらに永和3年11月17日(天授3年/1377年12月18日)付で鎌倉・円覚寺造営のために棟別銭徴収を命じる関東管領奉書の存在(「円覚寺文書」)が注目されている。これは、小山義政・宇都宮基綱の両方に同日付で発給され、ともに宛先を「下野守」としていること、守護の権限とされていた棟別銭が両方に命じられていることである。佐藤進一や後述の松本一夫・江田郁夫は守護権力の及ばない有力武家にも棟別銭徴収を許可したものと解したが、磯貝富士男や新川武紀はこれを下野国に2名の守護がいた証拠として捉えている。 その後、松本一夫・江田郁夫がこれらの説を批判して、小山氏の乱によって小山義政が守護を更迭されるまでは原則的には小山氏の世襲(秀朝―朝氏―氏政―義政)が維持されており、宇都宮氏からの守護補任はなかったとする説を出した。松本は小山氏側から、江田は宇都宮氏側からこの問題を追及しているが共通する指摘が多い。その要点として、 磯貝説の根拠となる口宣案の「先例」は、下野守護が下野守に補任された事例が多かったという指摘にはなっても、全ての下野守護が下野守であったと断定する証拠にはならない(さらに持政の下野守補任に関しては文安3年11月24日付の口宣案も存在しており、磯貝の根拠とする文書が偽文書の可能性もあるとする)。例えば木戸法季・結城基光は下野守護であったが下野守ではなかった。さらに磯貝説で下野守護とされている宇都宮氏綱自身も1352年に下野守から伊予守に補任されたことは足利尊氏の御教書などから判明しており、当の氏綱自身も伊予守の署名をした文書を発給しているが、磯貝説ではこのことに関する説明がつかなくなる。 小山朝氏から氏政にかけての小山氏は南北両陣営からの誘いがもっとも盛んであった時期である。もし、この時期に小山氏を守護から更迭すれば、同氏が南朝方に寝返るリスクの方が大きい。また、実際には同氏が最終的に南朝方に寝返ってはおらず、小山氏を守護から更迭する理由も存在しない。 宇都宮氏綱が観応の擾乱の戦功で上野・越後守護に補任されているが、仮にこの段階で下野1国もしくは半国守護であれば、2.5もしくは3ヶ国の守護となってしまう。室町幕府から見れば外様で下野1国も掌握していない宇都宮氏にこのような待遇が与えられる理由が不明で、むしろ小山氏が握る本国下野守護の代替として両国守護が与えられたと考えられる。 円覚寺造営を巡る棟別銭は隣の常陸国においては大掾氏・小田氏に対して命じる文書も残されているが、当時の同国守護は佐竹氏であり、棟別銭の徴収者が全て守護であったわけではない(勿論、鎌倉府が宇都宮基綱に棟別銭徴収権や下野守を与えることで、下野守護である小山義政に対して牽制を行った結果、両者の争いに発展した可能性はある)。 半国守護説についても小山氏の乱後に木戸法季や結城基光が継承した守護職が小山氏の持っていた半国分でしかないとすれば、依然として残り半国の守護であることに変わりがない筈の宇都宮氏当主(宇都宮満綱以後)が守護職を継承できなかった理由が全く示されていない。 などの指摘を行い、小山氏が守護の地位を失ったのは小山義政の反乱が原因であり、それ以前は下野国内最大の勢力となっていた宇都宮氏といえども同国守護には補任されなかったと論じた。なお、松本は守護である小山氏が建武政権の国司を兼ねたことを足がかりとして国衙の権力機構を継承したこと、勢力的に小山氏を上回る宇都宮氏や那須氏には干渉できず、加えて国内には足利庄など室町幕府御料所(下野守護補任説のある高師直や仁木頼章は足利庄代官であった可能性がある)も含まれていたために守護権力の行使できない地域が相当数存在し、それが小山氏の持つ守護権力に対する制約になったとしている。
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