旧説
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/26 14:07 UTC 版)
通説による戦いの経過は、次の通りとされる。 天文23年(1554年)5月12日に僅か一日で4つの城と厳島を制圧した毛利軍は、5月15日に周防国に侵入し、玖珂郡の小瀬・御庄(岩国市)で陶軍と交戦する。さらに、6月5日には逆に安芸国佐西郡明石に攻め込んできた陶軍を打ち破った(明石口の戦い)。 同年9月までに安芸能美島の占拠にも成功。毛利軍は、桜尾城(廿日市市)に本陣を置いた。この状況を見た陶晴賢は毛利討伐を優先させるため、吉見正頼と和睦する(籠城する吉見軍の兵糧も尽きかけていたため、和睦に応じざるを得なかったとされる)。同月上旬、家臣の宮川房長に兵3,000を与えて先行させた。途中で甲田丹後守や周防山代の一揆勢など兵4,000が合流、9月14日には桜尾城を望む折敷畑山に合計7,000の軍勢が布陣する。 これに対して毛利軍の宍戸隆家・福原貞俊が宮川勢の偵察を行う。この偵察では、着陣した敵軍は陶晴賢自身が率いていると誤認され、この報を受けた元就は奇襲による敵殲滅を図ったとも言われる。 14日夜、毛利全軍3,000は桜尾城から出陣。元就と隆元は折敷畑山の東方から、元就の次男吉川元春は北方から、三男小早川隆景は南方から、そして宍戸・福原勢が敵の背後を突く西方からに夜陰に紛れて進攻した。元就は、早朝の奇襲(朝駆け)を考えていたとされるが、宮川勢側も奇襲のための兵を潜ませていたと言われている。しかし、蛍の群れが乱れたことに気付いた元就は、陶軍の伏兵を察知して宍戸・福原の手勢を下がらせたと伝えられている。結局、毛利軍の攻撃は翌15日の午前中に行われた。包囲され総崩れとなった宮川勢は750人が討ち取られ、宮川房長は逃走後に追い詰められて討死もしくは自害した。
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