宍戸隆家(ししど たかいえ) 1518~1592
宍戸隆家
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宍戸 隆家(ししど たかいえ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。安芸国高田郡甲立(現在の広島県安芸高田市甲田町上甲立・下甲立)の五龍城を本拠[注釈 3]とする国人領主・安芸宍戸氏の当主。毛利元就の次女・五龍局を妻として毛利氏の一門衆となった。なお、当時の文書において苗字の「宍戸」は、「完戸」または「鹿戸」(読みはいずれも「ししど」)と表記されている[7]。
注釈
- ^ a b 後世の系譜類では、隆家は文禄元年2月5日(1592年3月18日)に75歳で死去したとしているが、同年5月26日に朝鮮出兵中の輝元が隆家に宛てた書状によると、同年4月8日に隆家から送られた書状に対する返信である旨が記載されている[2]。また、隆家の墓所にある、隆家の墓石としている宝篋印塔には「文禄二□二月五日」と刻まれている[3]ことから、実際には隆家が文禄2年(1593年)に死去したと考えられている[4]。
- ^ 河野通直の母とする説もある。
- ^ 近世の地誌には、居城とした五龍城とは別に、吉田の鑓分の田屋という畑が隆家の屋敷跡と伝わっている。ただし、吉川元春や小早川隆景の屋敷も描かれている「郡山中心一円図」等の近世の絵図には隆家の屋敷については描かれておらず、他に隆家の屋敷について記載された史料がないことから真偽は不明である[6]。
- ^ 隆家の生年については後世の系譜類の記載以外の確実な根拠は無く、実際にはもう少し後である可能性が指摘されている。文禄4年(1595年)12月に宍戸元秀が飯田宮内に対して、隆家の娘で毛利輝元正室の南の大方が「壬午御歳」の「御祈念」のために井原村内の10石の地を厳島神社内侍衆に寄進する旨を伝えているが、もし「壬午御歳」が隆家の生年を指すのであれば、隆家の生年は大永2年(1522年)となる[2]。なお、隆家の父・元家の没年も同様に系譜類に記載されているもので、史料的には若くして死去した元家の事跡は確認できない[5][2]。
- ^ 一説には後に主君・毛利氏より「元」の字を受けて曽祖父や父と同名の「元家」を名乗ったとも言われる。[要出典]
- ^ 山内隆通が提示した9ヶ条の条件は以下の通り。①宮氏と東氏の旧領で、山内隆通が知行している備後国奴可郡小奴可・久代の地は全て隆通の所領とすること。ただし、備中国哲多郡八鳥山については求めない。 ②隆通の実父である多賀山通続が毛利氏に服属した際に通続を疎略に扱わない、という旨の起請文を出すこと。 ③備後国永江の地は江田隆連に還付せず、以後も隆通の所領とすること。 ④備後国三谿郡和智村は近年の通り、山内氏と三吉氏の分領とすること。 ⑤備後国三上郡信敷の内の一部地方はかつては複数の国人で少しずつ分領していたが、以後は現状を維持し、誰がどのような提言をしようとも耳を貸さないこと。 ⑥高光氏は、隆通と同様に毛利氏へ従う意思があるため、高光氏の所領を安堵すること。 ⑦涌喜氏のこと。 ⑧毛利氏領内から1ヶ所を隆通に分与すること。 ⑨以上の条件を認めるという旨の誓書をこの箇条書の奥に書き、毛利元就、毛利隆元、宍戸隆家が連署と加判をすること。
- ^ 備後国涌喜の小豪族で、宍戸氏傘下ではなく、独立した領主としての地位保全を元就に依頼したものと思われる。
- ^ この時の傘連判状に名を連ねた人物は、毛利元就から時計回りに、毛利右馬頭元就、吉川治部少輔元春、阿曾沼少輔十郎広秀、毛利備中守隆元、完戸左衛門尉隆家、天野藤次郎元定、天野左衛門尉隆誠、出羽民部太輔元祐、天野中務少輔隆重、小早川又四郎隆景、平賀新九郎広相、熊谷兵庫頭信直の12名。
- ^ 伊予河野氏の最後の当主・河野通軌は宍戸氏の出身という説がある。
- ^ 国吉城攻めにおいて各軍が討ち取った敵兵の数の内訳は多い順に、毛利輝元の本軍が95人、宍戸隆家の軍が53人、熊谷高直の軍が29人、阿曽沼広秀の軍が28人、馬屋原信春の軍が27人、天野元明の軍が26人、平川盛吉の軍が13人、山内隆通の軍が11人、小早川隆景の軍が8人、天野元政の軍が5人、細川通董の軍が3人、長氏の軍が2人、平賀元相の軍が1人[40][41]。
- ^ 播磨出征において吉川元春の軍には、吉川元長、吉川元棟(後の繁沢元氏)、吉川経言(後の吉川広家)、毛利元秋、末次元康、益田元祥、山内隆通、羽根氏、三刀屋氏等の山陰の諸氏が加わり、小早川隆景の軍には穂井田元清、天野元政、宍戸隆家、三吉氏、多賀氏、平賀元相等の山陽の諸氏が加わった[42]。
- ^ 御四人は吉川元春、小早川隆景、福原貞俊、口羽通良の4人を指す。
- ^ 萩藩の各家の系譜や文書をまとめた『閥閲録』においても、その他の一門家老の各毛利家よりも先の巻1にまとめられているのは宍戸氏である。
出典
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p 田村哲夫編修 1980, p. 60.
- ^ a b c d 秋山伸隆 2018, p. 7.
- ^ a b 舘鼻誠 2020, p. 1107.
- ^ 舘鼻誠 2020, p. 1114.
- ^ a b c d e 毛利元就卿伝 1984, p. 83.
- ^ 安芸高田市歴史民俗博物館 2018, p. 28.
- ^ 安芸高田市歴史民俗博物館 2018, p. 63.
- ^ 『山内家文書』第284号、天正8年(1580年)9月6日付、山内隆通・山内千松丸(広通)宛て宍戸隆家・宍戸元孝(元秀)連署起請文。
- ^ a b c d e f 安芸高田市歴史民俗博物館 2018, p. 5.
- ^ 光成準治 2023, pp. 310–311.
- ^ a b 毛利元就卿伝 1984, p. 99.
- ^ a b 毛利元就卿伝 1984, p. 113.
- ^ 毛利元就卿伝 1984, p. 116.
- ^ a b 毛利元就卿伝 1984, p. 143.
- ^ 毛利元就卿伝 1984, p. 144.
- ^ 毛利元就卿伝 1984, p. 151.
- ^ a b c 毛利元就卿伝 1984, p. 152.
- ^ a b 毛利元就卿伝 1984, p. 157.
- ^ 毛利元就卿伝 1984, p. 158.
- ^ 毛利元就卿伝 1984, pp. 159–160.
- ^ 毛利元就卿伝 1984, pp. 193–195.
- ^ 毛利元就卿伝 1984, p. 202.
- ^ a b 毛利元就卿伝 1984, pp. 202–203.
- ^ 毛利元就卿伝 1984, p. 213.
- ^ 毛利元就卿伝 1984, p. 228.
- ^ a b 安芸高田市歴史民俗博物館 2018, p. 55.
- ^ 毛利元就卿伝 1984, pp. 332–333.
- ^ 毛利元就卿伝 1984, p. 240.
- ^ 安芸高田市歴史民俗博物館 2018, p. 56.
- ^ a b 毛利元就卿伝 1984, p. 347.
- ^ 毛利元就卿伝 1984, p. 348.
- ^ a b 安芸高田市歴史民俗博物館 2018, p. 59.
- ^ 『毛利家文書』第686号、永禄6年(1563年)比定2月28日付け、完戸左衛門尉(隆家)宛て毛利隆元自筆書状。
- ^ 宮本義己 2018, pp. 221–223.
- ^ 光成準治 2016, p. 386.
- ^ 毛利元就卿伝 1984, p. 437.
- ^ a b c 毛利元就卿伝 1984, p. 593.
- ^ 毛利元就卿伝 1984, p. 611.
- ^ 毛利輝元卿伝 1982, p. 12.
- ^ a b 毛利輝元卿伝 1982, p. 58.
- ^ 『毛利家文書』第375号、天正3年(1575年)1月1日付、備中國手要害合戦頸注文。
- ^ a b c d 毛利輝元卿伝 1982, p. 112.
- ^ 毛利輝元卿伝 1982, p. 112-113.
- ^ 毛利輝元卿伝 1982, p. 120-121.
- ^ 毛利輝元卿伝 1982, p. 121-122.
- ^ 安芸高田市歴史民俗博物館 2018, pp. 57–58.
- ^ 『山内家文書』第286号、天正8年(1580年)比定10月1日付、宍戸隆家書状。
- ^ a b 光成準治 2023, p. 314.
- ^ 安芸高田市歴史民俗博物館 2018, p. 32.
- ^ 安芸高田市歴史民俗博物館 2018, p. 31.
- ^ 宍戸隆家夫妻の墓(甲田町)|安芸高田市ホームページ
- ^ a b c 安芸高田市歴史民俗博物館 2018, p. 30.
- ^ a b c 秋山伸隆 2018, p. 8.
宍戸隆家(ししど たかいえ)
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「毛利元就 誓いの三矢」の記事における「宍戸隆家(ししど たかいえ)」の解説
元源の孫。毛利家とは敵対していたが後に帰順。各地を転戦し活躍する。(弓騎兵)
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