春木大方とは? わかりやすく解説

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春木大方

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/01/24 16:47 UTC 版)

春木大方(はるきのおおかた、生年不詳 - 寛永13年12月8日1637年1月4日))は、戦国時代から江戸時代初期にかけての女性。吉川元長の正室で、父は毛利氏の重臣である宍戸隆家。母は毛利元就の次女・五龍局。兄に宍戸元秀、姉に河野通宣室の天遊永寿、妹に毛利輝元正室の南の大方(清光院)がいる。安芸国山県郡春木村[注釈 1]に居住したことから「春木大方」と呼ばれた。法名は久昌院惟徹妙源大姉[1][2]

生涯

安芸国国人毛利氏の重臣となる宍戸隆家の次女として生まれる[1]。母は毛利元就の次女である五龍局[1]

吉川元春の嫡男・吉川元長と婚姻し[1]吉川氏の居城である日野山城下の春木村[注釈 1]に居住した[1]

天正15年(1587年6月5日九州出兵中の吉川元長が死去すると、吉川氏の家督は元長の弟である吉川経言(後の吉川広家)が相続し、春木大方は実家の宍戸家に戻った[1]

その後、周防国玖珂郡岩国に移り住んだ後、寛永13年(1636年12月8日に周防国吉敷郡山口の天花村[注釈 2]において死去し[1][2]、山口の上宇野令滝の大梅山大通院[注釈 3]に葬られる[1]

享保20年(1735年)10月、山口において春木大方の百年忌法要が執り行われ、萩藩からは藩主・毛利宗広の代理として野村藤左衛門が焼香を行った[3]

脚注

注釈

  1. ^ a b 現在の広島県山県郡北広島町春木
  2. ^ 現在の山口県山口市上天花町。
  3. ^ 永享2年(1430年)に大内義弘の子・大内持盛により創建された観音寺が後に勝音寺と改称し、江戸時代に入ると大通院と改称した。

出典

参考文献




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