大内持盛とは? わかりやすく解説

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大内持盛

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/08/10 16:27 UTC 版)

 
大内持盛
洞春寺蔵木造大内持盛坐像[注 1](有形文化財)
時代 室町時代中期
生誕 応永4年(1397年
死没 永享5年4月8日1433年4月27日
別名 孫太郎[1][2]、新介[1][2]
戒名 観音寺芳林道継[1]または勝音寺殿芳林道継[2]
官位 正六位上[2]、散位[2]
幕府 室町幕府 周防国・長門国守護
氏族 多々良姓大内氏
父母 父:大内義弘[3]
兄弟 持世[3]持盛大内教祐[2]、女子(保寿寺瑞山)[2]、女子(北禅寺晦室)[2]、女子(智海妙弘)[2]
教幸教弘
特記
事項
父は大内弘世とする説もある[1]
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大内 持盛(おおうち もちもり)は、周防国[2]長門国守護職[2]安芸国東西条、石見国迩摩郡の領主[2]

生涯

父は応永の乱を起こしたことで有名な、大内氏の第10代当主・大内義弘[3]、同第12代当主・大内持世の弟[3][注釈 1]。持世の父を祖父の弘世とする説では、持世の兄で義弘の養子になったとしている[1]元服時に4代将軍足利義持より偏諱の授与を受けて持盛と名乗る(「盛」は大内氏の通字の一つである)。

1431年に第11代当主・大内盛見(義弘の弟)が大友氏少弐氏と戦って筑前国で敗死した後、大内氏内部では跡継ぎをめぐって争いが起こった。生前、大内盛見は甥にあたる大内持世に大内家の家督と長門国を除く所領を継がせ、その弟であった持盛に長門国守護職を継ぐように遺言していたとされる。一方、室町幕府から重用されていた僧侶・満済[注釈 2]が書いた『満済准后日記』にはやや違った話が載せられている。満済とも面識があった大内氏重臣・内藤智得は山名時熙を通じて持盛が大内家の家督と周防国と安芸国の一部の所領を継がせ、持世に長門国・筑前国・豊前国を継がせ、一族の大内満世に迩摩郡(石見国)と長門の一部を与える案を満済に伝え、満済はこれを将軍・義教に取り次いだ(永享3年9月3日条)。ところが、後になって内藤は別の僧侶を満済の元に派遣し、生前の盛見が持盛が後を継ぐことに不安を抱いており、自分としては持世を後継者に推挙する旨を伝えてきたのである(同年9月24日条)。その結果、幕府の評議は持世を後継者にすることにし、持世に大内家の家督を継がせる御判と持盛に長門国と石見国迩摩郡・安芸の一部を安堵する御教書を出したという(同10月19・23日条)[6]。この変化について、大内氏の後継を巡る幕府との交渉を任されていた内藤智得が持盛が自分の競合相手であった陶盛政を重用した事に反発して持世支持に転じた事が関係するとみられている[7]

結果、後継から外されることになった持盛は不満を抱き、持世とともに九州へと出陣していた永享4年2月10日に突如反乱を起こして持世を石見国に追って大内氏領国を制圧する。だが、持世は国人衆の支持を背景にして持盛を攻撃して領国を奪還、1433年4月27日永享5年4月8日[2]))に、持盛は敗れ豊後国篠崎において討死する[1][2]。37歳[2]

脚注

注釈

  1. ^ 一、基本情報と外観概要:
    この像は山口市の洞春寺に所蔵され、ヒノキ材の寄木造りで総高94.6cmの室町時代作である。円頂(僧形)で法衣を着用し、その上に袈裟を懸ける。両手は膝の上で重ね、各第一指の先を合わせた禅定印を結び、曲ろく(結跏趺坐)の坐法をとっている。彩色は施されているが、すべて後世の補修によるものである。

    二、歴史的背景と由来:
    この像は、大内持盛(義弘の子)の菩提寺である観音寺の開基像として制作された。持盛は、盛見の戦死後、兄の持世と家督争いを起こし長門で勝利した後、九州の小弐氏と同盟して豊前から長府に入った。一方、石見で兵を募った持世が勢力を回復して長府に迫ると、持盛は九州へ逃亡するも、最終的に豊前篠崎で戦死した。こうした経緯から、持盛を祀る観音寺の像として造られた。

    三、詳細な容貌と体躯の特徴:
    像は円頂で額に3筋の皺を刻み、顎が尖った逆三角形の面貌を持つ。下唇をやや前方に突き出して口をしっかり閉じ、細く切れ長の眼は奥深い輝きを秘める。耳はやや張り出した大きさで耳穴を刻み、体躯はなで肩である。裳裾を末広がりに造形し、全体を安定感のある二等辺三角形にまとめている。袈裟のつり鐶は八角形で、法衣の上に懸けられている。

    四、構造と保存状態:
    構造は桧材の寄木造りで、底板を張り黒漆を塗った上に厚い彩色が施されているため、詳細は不明瞭だが、矧ぎ跡の釘止め痕から推定される。頭部は前後2材の矧ぎ、体部も前後2材矧ぎとし、両肩から地付部までの体側部を別材で矧ぎつける。膝前から前膊部および両手首先までは横1材から彫出し、全体に内刳りを施す。方々にひび割れがあるが保存状態は良好である。

    五、彩色の詳細と寸法:
    彩色は後補で、顔や手首先などの肉身部は肉色彩、眉は墨描き、口唇に朱彩を施す。法衣は一色だが不明瞭で、袈裟は「切り交ぜ」技法を用い、地は薄い橙色(たいしゃ色)の下地に唐草文を散らし、縦横の條はコバルト下地に三鈷杵と開花文を配している。寸法は以下の通り:総高94.6㎝、像高59.3㎝、頂上~顎18.4㎝、面幅11.6㎝、耳張り15.1㎝、面奥18.0㎝、肩張り34.0㎝、臂張り44.7㎝、胸奥19.7㎝、腹奥22.8㎝、膝張り53.2㎝、膝高10.6㎝、膝奥35.0㎝、裾張り63.9㎝、膝前の垂れ(右側)33.8㎝。
  1. ^ 大内義弘を第25代当主。大内持世を第27代当主と記述する文献もある[4]
  2. ^ 『満済准后日記』正長元年5月26日条によれば満済は足利義教から大内氏の申次に任ぜられており、在京被官を長く務めた経歴を持つ内藤智得も満済を通じて幕府と交渉したとみられる[5]

出典

  1. ^ a b c d e f 近藤清石 1885, 巻第6.
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o 御薗生翁甫 1980, p. 20.
  3. ^ a b c d 御薗生翁甫 1980, p. 19.
  4. ^ 御薗生翁甫 1980, pp. 18–19.
  5. ^ 藤井崇 2013, p. 172.
  6. ^ 藤井崇 2013, pp. 168–171.
  7. ^ 藤井崇 2013, pp. 171–172.

参考文献

関連項目





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