藩歴とは? わかりやすく解説

藩歴

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/22 10:09 UTC 版)

福井藩」の記事における「藩歴」の解説

越前国戦国大名朝倉氏滅亡の後、柴田勝家丹羽長秀堀秀政領有経て豊臣秀吉配下の小大名によって分割支配させられていた。関ヶ原の戦いの際、青木一矩西軍方に付いたために戦後越前北ノ庄8万石没収されている。 慶長6年1601年)に関ヶ原の戦いの功により、徳川家康次男の秀康が越前一国67万石与えられ柴田勝家築いた北ノ庄城を約6年かけて大改修居城とする。秀康は結城姓を松平復し越前松平家興す。 秀康の嫡男松平忠直は、大坂の陣戦功立てながらも将軍秀忠認められなかったことなどから、次第幕府反抗的態度を取るようになった。そのため、元和9年1623年忠直乱行理由廃され豊後国大分に配流された。 翌年寛永元年1624年4月越後高田藩別家259千石与えられていた忠直の弟(秀康の次男)の松平忠昌50万石福井藩主な家臣幕府選ばれた百余名主とする)、藩領継承する7月の忠昌入部ののち、居城周辺の街・北ノ荘は福居(後に福井)と名を改められる。またこのとき、越前国複数の藩に分割されることになる。 福井藩越前福井50万石が秀康次男忠昌に与えられる丸岡藩越前丸岡46千石附家老本多成重与えられ独立する大野藩越前大野5万石が秀康三男直政与えられる勝山藩越前勝山3万石が秀康五男直基に与えられる木本藩越前大野郡内木本2万5千石が秀康六男直良に与えられる越前敦賀郡はいったん幕府領となり、その後小浜藩京極氏与えられるその後福井藩支藩分封相続混乱から所領大幅に減らし貞享3年1686年)に第6代藩主綱昌は発狂理由強制隠居処分され、前藩主昌親が領地半減の上で再襲(吉品)した。吉品が就封の際、領地宛行状国名越前少将から、城地名の福井侍従となり、忠昌が大坂の陣使った片鎌槍大名行列の際の使用禁じられた。また、この時に藩邸格式も下がり、江戸城の詰間が将軍家親族詰め大廊下から、外様国持大名と同じ大広間異動した。ただし、この間もこれ以降歴代藩主当代将軍偏諱拝領する特別な家」であり続けた享保6年1721年)には支藩松岡藩福井県吉田郡永平寺町)の再併合により30万石復し文政2年1819年)にさらに2万石を加増されるなど、徐々に家格回復した官位10代宗矩から再び左近衛権少将に戻る。内政では領地激減複数回の天災見舞われたことなどにより、藩財政大い逼迫させ、度重なる一揆見舞われて困難を極めた田安徳川家から養子入った幕末藩主慶永(春嶽)は、橋本左内らを登用し、また熊本藩から横井小楠招聘して藩政改革おこなった安政の大獄により隠居余儀なくされたが、謹慎解除後は公武合体派重鎮として幕政に参与している。 戊辰戦争では、薩長主導明治新政府加わり江戸無血開城後は、上野寛永寺一帯立てこもった彰義隊討伐参戦した福井藩領は明治4年1871年)、廃藩置県により福井県、ついで足羽県となり、さらに敦賀県経て石川県併合されるが、のち旧越前および若狭福井県として分立した際にその中心部となった

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藩歴

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/30 05:54 UTC 版)

諏訪藩」の記事における「藩歴」の解説

戦国時代諏訪の地は諏訪神社大祝(おおほうり)である名門諏訪氏支配下にあった。しかし天文11年1542年)、武田信玄(晴信)の侵攻受けて諏訪頼重切腹となり、諏訪氏宗家滅亡した。しかし頼重従兄弟に当たる諏訪頼忠は、武田氏支配下の中で神官として生き残った天正10年1582年3月武田勝頼織田信長徳川家康連合軍によって滅亡し、さらに同年6月信長本能寺の変横死すると信濃甲斐を巡る天正壬午の乱発生し、その過程において頼忠は自立して諏訪家再興するその後信濃侵攻してきた家康軍と戦ったが、やがて家康和睦しその家臣となった天正18年1590年)、徳川家関東移封されると、頼忠も家康に従って諏訪離れ武蔵国奈良梨(のち、上野国那波郡惣社移封)に所領与えられた。 代わって日根野弘就の子・高吉が諏訪家移った同年に入封する。そして高吉の子・吉明が家督継いだが、慶長6年1601年下野壬生藩移封一説には減封)される。 同年諏訪頼忠の子諏訪頼水旧領高島復帰した所領当初2万7000石、のち大坂の陣に参陣した第2代藩主・忠恒はその功績により元和4年1618年)に5000石を加増され、32000石となる。第3藩主・忠晴の時代に忠恒の遺言により忠晴の弟の頼蔭と頼久にそれぞれ1000石を分知して3万石となった以後諏訪家支配明治時代至った天保7年1836年)の天保騒動では甲府勤番の命を受けて一揆鎮圧のために甲州派兵した天狗党の乱では元治元年1864年11月諏訪藩兵は松本藩兵と共同して中山道和田峠天狗党交戦したが、敗北している(和田合戦樋橋戦争)。明治元年1868年)の戊辰戦争では新政府軍として活躍し甲州勝沼の戦い北越戦争会津戦争参戦した明治4年1871年)の廃藩置県により高島県となる。その後筑摩県経て長野県編入された。なお、諏訪家明治17年1884年子爵となり華族に列せられた。

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藩歴

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/18 01:45 UTC 版)

日出藩」の記事における「藩歴」の解説

藩祖豊臣秀吉正室高台院(於禰)の兄・木下家定三男である木下延俊である。延俊は慶長5年1600年)の関ヶ原の戦いのとき、東軍終始活躍した功績により戦後徳川家康から5千石加増豊後国速見郡日出3万石封じられた。なお、父の家定も延俊とは別に所領与えられ備中国賀陽郡足守賀陽郡上房郡2万5千石)に足守藩立てている。なお、日出足守藩主家高台院近親と言うことで、大坂夏の陣後も「豊臣氏」を称することが許されていた。 延俊の子で、第2代藩主となった木下俊治時代、弟の木下延由5000石(速見郡立石)の所領分与したため、日出藩所領2万5000石となる。江戸時代通じて移封減封もされることなく16代にわたって木下家日出支配し明治時代迎えた明治4年1871年)、廃藩置県により日出県となり、のち、大分県編入された。

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/07/15 14:39 UTC 版)

牛久藩」の記事における「藩歴」の解説

牛久藩12代にわたって支配した山口家は、戦国時代西国大名では最強呼ばれた名門大内氏系統と言われている。祖先応永の乱室町幕府第3代将軍・足義満反乱起こした大内義弘次男大内持盛と言われ大内氏本拠地周防国山口地名をとって山口称した牛久藩藩祖山口重政ははじめ織田信長次男・信雄に仕えその後徳川家康仕えた。そして慶長5年1600年)の関ヶ原の戦いにおける戦功により、上総国5000石、武蔵国5000石の所領与えられ合計1万石を領する大名になったその後下野国5000石を加えられ1万5000となっている。しかし慶長18年1613年1月8日重政嫡子山口重信大久保忠隣養女との婚姻幕府届けなかったとして、私婚禁止違反であるとして幕命により改易された。重信正室石川康通の娘で、忠隣の養女として嫁いだが、これが家康怒り触れたのであるその後重政は罪を許されて再び常陸国遠江国1万5000石の所領与えられた。 第2代藩主山口弘隆のとき、領地常陸国下総国集められ牛久陣屋構えた牛久は元々豊臣秀吉小田原征伐の際に北条氏についていた上野国由良国繁が、留守守っていた実母妙印尼早々豊臣軍降伏したことから彼女の戦功引換改易免れて移されていたが、国繁の嫡男貞繁の没後に弟が継いで減封処分受けたために、山口家与えられのである山口弘隆は弟・山口重恒に5000石を分知したため牛久藩の総石高1万となったその後山口家支配明治維新にまで至った

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/20 21:52 UTC 版)

津山藩」の記事における「藩歴」の解説

慶長5年1600年関ヶ原の戦いの後、美作国備前岡山藩主小早川秀秋領していた。慶長7年1602年)、秀秋の無嗣子での死去により廃絶となる。 慶長8年1603年)、信濃川中島藩より森可成の子忠政が美作一国186500石で入部し津山藩立藩した。この地は従来鶴山呼ばれていたが、忠政により津山改められた。翌慶長9年1604年)より美作府庁として津山城築城着手し元和2年1616年)に完成したこの間津山城下町整備され藩政基礎築かれた。 元禄10年1697年)、4代長成が死去し末期養子として2代長継の十二男で叔父家老・関衆之の養子出されていた衆利が迎えられた。同年、衆利は継承挨拶のため江戸出府途中伊勢で狂心したため、幕府美作津山藩召し上げた。しかし隠居の長継が健在であり、またその子多数いたため 、長継に備中国西江原藩2万石の再襲を許して家名存続認めこれに伴い支藩津山新田藩1万5000石を播磨国三日月藩1万5000石、宮川藩1万8700石を備中国新見藩1万8000石にそれぞれ転封した。 元禄11年1698年)、結城秀康を祖とする越前松平家分家松平宣富10万石で入部以後廃藩置県まで松平氏治めるところとなった享保6年1721年)に家督継いだ嗣子五郎享保11年1726年)に嗣子無いまま11歳夭折したが、改易免れ、宣富の弟で白河新田藩松平知清三男の長熙を迎え家督相続させた。ただしこの際知行半減5万石となり、藩の格式低下したこののち8代藩主11代将家斉十四男斉民を養子迎えることにより、石高10万石に復帰させることに成功した松平氏藩政時代政情不安定だった入部の年には元禄一揆高倉騒動)があり、享保11年には山中一揆さんちゅういっき)、幕末には改政一揆百姓一揆頻発した津山藩幕末から明治にかけて藩医だった宇田川家箕作家からは優れた洋学者輩出し日本近代科学発展寄与した津山藩士の津田真道皇紀紀元確立した内閣総理大臣となった平沼騏一郎津山藩出身である。 明治4年1871年廃藩置県により津山県となる。北条県経て岡山県編入された。

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