江戸無血開城とは? わかりやすく解説

江戸開城

(江戸無血開城 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/14 15:27 UTC 版)

江戸開城(えどかいじょう)は、江戸時代末期(幕末)の慶応4年(1868年)3月から4月(旧暦)にかけて、明治新政府軍東征大総督府)と旧幕府徳川宗家)との間で行われた、江戸城の新政府への引き渡しおよびそれに至る一連の交渉過程をさす。江戸城明け渡し(えどじょうあけわたし)や江戸無血開城(えどむけつかいじょう)、江戸城無血開城(えどじょうむけつかいじょう)ともいう。徳川宗家の本拠たる江戸城が同家の抵抗なく無血裏に明け渡されたことから、同年から翌年にかけて行われた一連の戊辰戦争の中で、新政府側が大きく優勢となる画期となった象徴的な事件であり、交渉から明け渡しに至るまでの過程は小説演劇テレビドラマ映画などの題材として頻繁に採用される。





江戸無血開城

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/14 12:14 UTC 版)

鳥羽・伏見の戦い」の記事における「江戸無血開城」の解説

江戸で幕臣動向不安定な態となっていた。幕臣たちは、鳥羽・伏見の戦い戦況聴いて、かつ、目の前に主君慶喜公の東帰を拝み、また負傷兵続々送還されてくるのをみていては、いよいよ悔しさ歯ぎしりがたえず、みな「大阪城でのできごとは、かの烈公ご子息あらせられる慶喜公のほうに、もとから毛の先ほど朝廷敵対しようとのお気持ちがあるはずもないに決まっているだろうに。君側の奸なんとしてでも払わねばならぬ不幸にして軍が敗れたとはいえ、その誠の心は天地ただして疑い一切ない。誓って挽回の策をたて、太陽にも月にも光とはいかなるものかを明らかにするしかないではないか」「あちらが官軍とはいっても、錦旗のかげにかくれた薩長勢しかいないにすぎないではないか。どうしてあごであいつらだと合図送って、ぶん殴ってやらないことか」など宣言檄文投書などが江戸内外入り乱れていた。またそのひとつは「内府内大臣慶喜)公が天朝朝廷)へ二心がないのは、天下万民知っているところなのに、内府公の弟である因幡国鳥取藩主池田慶徳候や備前国岡山藩主池田茂政候らが、さては、井伊家をはじめ譜代大名らを西軍新政府軍の事を指す)に加わらせたのは、これより名分廃滅甚だしい事はない。いま天皇がまだ16歳幼くて奸臣どもが権力をぬすみ、みことのりをたわめて追討令をださせるなど、いやしくも人の心が有る者は、死を決意してでも百度はいさめ、千度は争う事こそ皇国大綱にして、ひとたる臣下大義であれ。それがネズミのごとき軽薄な輩どもは、この大義をしらず、現状甘んじて奸徒どもに駆逐され使われ、東に向かっておのおのの軍旗を翻そうとしているではないか。われらは速やかに義兵挙げ君側の奸誅罰し、なにより名分を正す事がだれもにとっても人の人たる心の大節操だ。もしそうともせず賊徒駆逐され使われしまえば、おのれが不義おちいるだけでなく、また天皇政体をも不明におちいらせるだけだ。こい願わくば意気があって節義を知るサムライはこのことばをあらゆるところへ伝え天下正義の心鼓舞しふるいたたせ、三綱五常人倫の道を護持せよ!」という内容だった(2月江戸筋違見附高札場へはりだされていた檄文)。彰義隊檄文には「わが公(慶喜公)はもとより尊王為に忠義尽くされ、かつ世界形勢洞察され、ある朝二百年をこえておこなれてきた祖先伝来偉業朝廷返されたのは、公明至誠英断だったと、天下すべての人々が知るところである。ところが、奸徒詐欺陰謀でわが慶喜公がいまの日の危急至ったのは、悔しさのあまり歯ぎしり堪えることができない主君辱められているのは臣下が死ぬときである。ことに主家江戸建都されて以来われらはサムライの身にして、どうして主君への冤罪傍観していられるだろう。各自協力し心を同じくし、多年にわたる大きな恩に報いよう」とあった。また薩摩藩の罪の数々を、ひとつずつ余すところなく数えた文書がだれかからあちこちに貼られ、しきりに扇動しようとしていた。陸軍・海軍軍人、特に海軍副総裁榎本武揚陸軍奉行並の小栗忠順歩兵奉行大鳥圭介新選組面々などはおおむね主戦論で、兵を箱根笛吹にだして官軍待とうという者もいたし、軍艦ですぐにでも大阪攻撃しようという者もいた。また、関東占拠策を江戸城献上し軍隊新組織法を建白し、あるいは北白川宮能久親王たてまつって兵を挙げようという者もいた。「君上(慶喜公)が単騎でご上洛御所参内されれば士気奮って軍を挙げる機会もたちまちに熟しましょう」と興奮しながら激し口調でいう者もいた。 老中らはこれらの主戦論同意で、江戸薩摩藩の各邸宅没収のうえ他の大名家らに預けた1月13日老中らは歩兵頭へ駿府警備命じ14日下総国古河藩主・土井利与神奈川警備増員命じ17日目付箱根碓氷両関所に派遣し20日信濃国松本藩主・戸田光則上野国高崎藩主・大河内輝声らに碓氷関警備させた。急な使いがあらそうようあちこち馳せ江戸城中の混乱さることながらましてや官軍による方々での乱暴狼藉をしらせる特使からの急ぎ報告ひっきりなしに続くので、主戦派の人々激論激論重ね、いつ果てるともなかった。 12日慶喜帰ってきたときの江戸城中の混乱ただごとはなく、主戦論主張したのは会津藩桑名藩だけでなく、老中以下、もろもろ幕臣までほとんどが主戦論者でない者はいないありさまで、なかには腹を抱えて笑うべきな主戦論であった桑名藩主・松平定敬自邸江戸桑名藩邸)にも入らずに、一橋徳川邸、江戸会津藩邸などに侍って日ごと江戸城へ登っていた。官僚らは入り混じりながら慶喜公に謁見し、おのおのの説を勧め、その止まない談話往々にして夜を徹し暁がほのかに出るころまでつづき、もろもろ幕臣同士議論にわとり鳴く声を聞こえる朝がたになるまでまったく終わりをみせなかった。17日若年寄堀直虎は「わが身が国事決定的に変える重要な局面いながらに、この難局処理する力がなく、若年寄たる有難き委任まっとうできず、一介武士として面目ない」と、ついに殿中自害した伊豆国韮山代官所手代柏木忠俊は、上野国前橋藩主・松平直克家老山田太郎右衛門とともに慶喜罷免謹慎させ、徳川氏永続はかろうとしているとの風説飛び交った1月20日慶喜江戸各藩邸の重役をよぶと、官軍侵略止めるよう各藩主からの働きかけ頼んだ。同21日慶喜尾張藩主徳川慶勝越前藩主・松平春嶽広島藩主・浅野長勲熊本藩主細川護久土佐藩主・山内容堂らへ朝敵冤罪についての弁明と、慶喜真意についても理解請う手紙おくった。その書は「鳥羽・伏見の戦いは、かねてからのわが素志背いているので、断然大阪城尾張殿と越前殿の両家託しておき、わが方の兵を引きあげさせた。まったく一時先供らの争闘にすぎないが、あるいは牽強付会道理あわないのに朝議をする人々からのこじつけを)され、予に朝敵悪名を負わさせたようにも承(うけたまわ)っている。予は実に意外で、恐怖嘆き至りであり、結局防備きわめて堅固な拠点棄てて天皇への赤心うそいつわりのない忠誠まごころ)を表した。しかし何分、予は近来なにをしてもわが志に背くだけでなく、ついには病魔おかされ事務とりあつかいかねている後継者選んで退隠しようと思う。なにとぞこれまでかわらぬ厚誼によってあいかわらず力を尽くされ朝廷第一に奉り朝議参加している少数西国列藩へもご説諭され、誤って朝敵とされている各藩汚名をそそぐよう千万回もつつしんでお願い申し上げるところである」との内容だった。また慶喜真心尽くした誠意のかぎりいろいろな方面へ、新政府から朝敵とされている諸藩への救援求めたが、江戸城のうちではつねづね親しい者へ「予は烈公遺訓守り、特にとても苦心して勤皇励んできたが、兵士らを統御する方法足らずに今のおいつめられた苦し状況に陥ってしまったのは、まったくわが不徳の致すところだ。天も人も恨んだ咎めたりすべき筋ではないが、朝敵汚名こうむったことだけは口惜しさの極みだ。天がご覧にいれてくれていればいつかは冤罪張れる日もあるだろう」といい、「予は不肖ながら多年にわたり皇室近侍し、朝廷へもとから疎(うと)んずる心はあるはずもないのに、鳥羽・伏見の戦い一挙動は、不肖にも指令誤ったはからずも朝敵汚名こうむってしまったからにはいまさらなんの言い訳できないひとえに天のお裁き仰ぎこれまでの落ち度を謝るだけだ。部下憤激いわれないことではない、しかしもしここで戦をおこなってなかなか終わらなければ中国支那大清帝国など)やインドと同じわだちをふみ(列強からの侵略植民地化受けて)、皇国瓦解し万民塗炭の苦しみおちいってしまうだろう。これを忍ぶことは到底できない」といった。また、慶喜旗本黒川嘉兵衛へ「(天皇家へ)恭順のほかに覚悟がないからこそ、(予は)東帰したのだ」といった。慶喜旗本らへ「祖宗(そそう)(歴代徳川将軍)から今日まで、おのおの忠勤抜きんでる秀でた働きをしてくれたのは感謝至りである。予の薄徳かつ不行き届きにより、はからずも今の形勢至ってしまったので、関西治めている面々以後朝廷からご沙汰の品もあるべきだろうから、予の思い分かり次第銘々の領地帰って朝命遵奉し、武士民衆安堵させる政策をとってほしい。そうしてこそ朝廷恭順趣旨もたち、予の尊王素志にも叶うのである」と諭し、「いまの形勢知行地大名領地)から米穀運送おこなわれがたい向きもある。追々政府が古い例にならった家格廃止することになるだろう事情無論なので、各自家来らのことをはじめ、みずから非常時改革おこない今後暮らしの道をたてるよう今から覚悟すべきであるくれぐれも、予の不肖からこの次第いたってしまったと深く恥じ入っているので、実に気の毒と存ずるところである」とも諭した慶喜はついで、1万石以下の旗本御家人家族ののぞむまま知行地帰国土着させ、恭順中は都下江戸都市部)の旗本御家人による派手な音楽演奏鳴り物)をやめさせ、月代をそるのも禁じたまた、慶喜朝廷から譴責をうけていた会津藩主・松平容保桑名藩主・松平定敬24人へ江戸城への登城禁じると、恭順の旨をさとしながら遠く江戸の外へ退いて謹慎させた。容保は会津へ、定敬は越後国柏崎去った天皇家への恭順日本国為になる信じている慶喜にとって、容保と定敬の帰国は、対新政府軍準備整えさせようとした内意では勿論まったくなかった幕臣勝海舟が「飽くまで上様大君慶喜公)が恭順思し召しならばわが命を懸けてご趣意貫徹努めるべく、もしまた雪冤の戦(朝敵濡れ衣晴らす戦)をとのご上意ならば、まず軍艦桜島襲って薩摩藩本拠突き、また別の艦隊清水湾の要所抑え官軍侵入を防ぐなどの策もございます。進むも止まるいづれも御意のままに遵行いたしますというと慶喜は「すでに一意恭順決めた断然恭順謹慎し、天皇家朝廷)のご命令を待つべきだ」と答え、勝は大い感激してそうならば飽くまで恭順ご趣意貫徹向かって力を尽くさせて頂きますというと慶喜の命を受け東征大総督府下参謀薩摩藩士・西郷隆盛との談判向かって江戸無血開城を成就させた。慶喜幕臣大久保一翁へも同じ趣旨諭すと、勝とおなじような反応であったとのち回顧している。

※この「江戸無血開城」の解説は、「鳥羽・伏見の戦い」の解説の一部です。
「江戸無血開城」を含む「鳥羽・伏見の戦い」の記事については、「鳥羽・伏見の戦い」の概要を参照ください。

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