江戸開城
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江戸開城(えどかいじょう)は、江戸時代末期(幕末)の慶応4年(1868年)3月から4月(旧暦)にかけて、明治新政府軍(東征大総督府)と旧幕府(徳川宗家)との間で行われた、江戸城の新政府への引き渡しおよびそれに至る一連の交渉過程をさす。江戸城明け渡し(えどじょうあけわたし)や江戸無血開城(えどむけつかいじょう)、江戸城無血開城(えどじょうむけつかいじょう)ともいう。徳川宗家の本拠たる江戸城が同家の抵抗なく無血裏に明け渡されたことから、同年から翌年にかけて行われた一連の戊辰戦争の中で、新政府側が大きく優勢となる画期となった象徴的な事件であり、交渉から明け渡しに至るまでの過程は小説・演劇・テレビドラマ・映画などの題材として頻繁に採用される。
江戸無血開城
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江戸では幕臣の動向が不安定な状態となっていた。幕臣たちは、鳥羽・伏見の戦いの戦況を聴いて、かつ、目の前に主君・慶喜公の東帰を拝み、また負傷兵が続々と送還されてくるのをみていては、いよいよ悔しさに歯ぎしりがたえず、みな「大阪城でのできごとは、かの烈公のご子息であらせられる慶喜公のほうに、もとから毛の先ほども朝廷に敵対しようとのお気持ちがあるはずもないに決まっているだろうに。君側の奸をなんとしてでも払わねばならぬ。不幸にして軍が敗れたとはいえ、その誠の心は天地にただして疑いは一切ない。誓って挽回の策をたて、太陽にも月にも光とはいかなるものかを明らかにするしかないではないか」「あちらが官軍とはいっても、錦旗のかげにかくれた薩長勢しかいないにすぎないではないか。どうしてあごであいつらだと合図を送って、ぶん殴ってやらないことか」など宣言、檄文、投書などが江戸の内外に入り乱れていた。またそのひとつは「内府(内大臣、慶喜)公が天朝(朝廷)へ二心がないのは、天下万民が知っているところなのに、内府公の弟である因幡国の鳥取藩主・池田慶徳候や備前国の岡山藩主・池田茂政候らが、さては、井伊家をはじめ譜代大名らを西軍(新政府軍の事を指す)に加わらせたのは、これより名分の廃滅が甚だしい事はない。いま天皇がまだ16歳と幼くて、奸臣どもが権力をぬすみ、みことのりをたわめて追討令をださせるなど、いやしくも人の心が有る者は、死を決意してでも百度はいさめ、千度は争う事こそ皇国の大綱にして、ひとたる臣下の大義であれ。それが犬やネズミのごとき軽薄な輩どもは、この大義をしらず、現状に甘んじて奸徒どもに駆逐され使われ、東に向かっておのおのの軍旗を翻そうとしているではないか。われらは速やかに義兵を挙げ、君側の奸を誅罰し、なにより名分を正す事がだれもにとっても人の人たる心の大節操だ。もしそうともせず、賊徒に駆逐され使われてしまえば、おのれが不義におちいるだけでなく、また天皇の政体をも不明におちいらせるだけだ。こい願わくば意気があって節義を知るサムライはこのことばをあらゆるところへ伝え、天下に正義の心を鼓舞しふるいたたせ、三綱五常の人倫の道を護持せよ!」という内容だった(2月に江戸筋違見附高札場へはりだされていた檄文)。彰義隊の檄文には「わが公(慶喜公)はもとより尊王の為に忠義を尽くされ、かつ世界の形勢を洞察され、ある朝、二百年をこえておこなれてきた祖先伝来の偉業を朝廷へ返されたのは、公明で至誠の英断だったと、天下すべての人々が知るところである。ところが、奸徒の詐欺と陰謀でわが慶喜公がいまの日の危急に至ったのは、悔しさのあまり歯ぎしりに堪えることができない。主君が辱められているのは臣下が死ぬときである。ことに主家が江戸を建都されて以来われらはサムライの身にして、どうして主君への冤罪を傍観していられるだろう。各自、協力し心を同じくし、多年にわたる大きな恩に報いよう」とあった。また薩摩藩の罪の数々を、ひとつずつ余すところなく数えた文書がだれかからあちこちに貼られ、しきりに扇動しようとしていた。陸軍・海軍の軍人、特に海軍副総裁の榎本武揚、陸軍奉行並の小栗忠順、歩兵奉行の大鳥圭介や新選組の面々などはおおむね主戦論で、兵を箱根や笛吹にだして官軍を待とうという者もいたし、軍艦ですぐにでも大阪を攻撃しようという者もいた。また、関東占拠策を江戸城へ献上し、軍隊の新組織法を建白し、あるいは北白川宮能久親王をたてまつって兵を挙げようという者もいた。「君上(慶喜公)が単騎でご上洛(御所へ参内)されれば、士気が奮って軍を挙げる機会もたちまちに熟しましょう」と興奮しながら激しい口調でいう者もいた。 老中らはこれらの主戦論に同意で、江戸の薩摩藩の各邸宅は没収のうえ他の大名家らに預けた。1月13日、老中らは歩兵頭へ駿府警備を命じ、14日、下総国の古河藩主・土井利与へ神奈川警備の増員を命じ、17日は目付を箱根と碓氷の両関所に派遣し、20日、信濃国の松本藩主・戸田光則と上野国の高崎藩主・大河内輝声らに碓氷関を警備させた。急な使いがあらそうようにあちこちへ馳せ、江戸城中の混乱もさることながら、ましてや官軍による方々での乱暴狼藉をしらせる特使からの急ぎの報告はひっきりなしに続くので、主戦派の人々は激論に激論を重ね、いつ果てるともなかった。 12日慶喜が帰ってきたときの江戸城中の混乱はただごとはなく、主戦論を主張したのは会津藩・桑名藩だけでなく、老中以下、もろもろの幕臣までほとんどが主戦論者でない者はいないありさまで、なかには腹を抱えて笑うべきな主戦論まであった。桑名藩主・松平定敬は自邸(江戸桑名藩邸)にも入らずに、一橋徳川邸、江戸会津藩邸などに侍って日ごとに江戸城へ登っていた。官僚らは入り混じりながら慶喜公に謁見し、おのおのの説を勧め、その止まない談話は往々にして夜を徹し暁がほのかに出るころまでつづき、もろもろの幕臣同士の議論はにわとりが鳴く声を聞こえる朝がたになるまでまったく終わりをみせなかった。17日、若年寄・堀直虎は「わが身が国事を決定的に変える重要な局面にいながらに、この難局を処理する力がなく、若年寄たる有難きご委任をまっとうできず、一介の武士として面目ない」と、ついに殿中で自害した。伊豆国の韮山代官所手代・柏木忠俊は、上野国の前橋藩主・松平直克の家老・山田太郎右衛門とともに慶喜を罷免・謹慎させ、徳川氏の永続をはかろうとしているとの風説も飛び交った。 1月20日、慶喜は江戸の各藩邸の重役をよぶと、官軍の侵略を止めるよう各藩主からの働きかけを頼んだ。同21日、慶喜は尾張藩主・徳川慶勝、越前藩主・松平春嶽、広島藩主・浅野長勲、熊本藩主・細川護久、土佐藩主・山内容堂らへ朝敵の冤罪についての弁明と、慶喜の真意についても理解を請う手紙をおくった。その書は「鳥羽・伏見の戦いは、かねてからのわが素志に背いているので、断然と大阪城を尾張殿と越前殿の両家に託しておき、わが方の兵を引きあげさせた。まったく一時の先供らの争闘にすぎないが、あるいは牽強付会(道理があわないのに朝議をする人々からのこじつけを)され、予に朝敵の悪名を負わさせたようにも承(うけたまわ)っている。予は実に意外で、恐怖と嘆きの至りであり、結局、防備のきわめて堅固な拠点も棄てて天皇への赤心(うそいつわりのない忠誠のまごころ)を表した。しかし何分、予は近来なにをしてもわが志に背くだけでなく、ついには病魔におかされ事務もとりあつかいかねている。後継者を選んで退隠しようと思う。なにとぞ、これまでとかわらぬ厚誼によってあいかわらず力を尽くされ、朝廷を第一に奉り、朝議に参加している少数の西国列藩へもご説諭され、誤って朝敵とされている各藩の汚名をそそぐよう千万回もつつしんでお願い申し上げるところである」との内容だった。また慶喜は真心を尽くした誠意のかぎりいろいろな方面へ、新政府から朝敵とされている諸藩への救援を求めたが、江戸城のうちではつねづね親しい者へ「予は烈公の遺訓を守り、特にとても苦心して勤皇に励んできたが、兵士らを統御する方法が足らずに今のおいつめられた苦しい状況に陥ってしまったのは、まったくわが不徳の致すところだ。天も人も恨んだり咎めたりすべき筋ではないが、朝敵の汚名をこうむったことだけは口惜しさの極みだ。天がご覧にいれてくれていれば、いつかは冤罪の張れる日もあるだろう」といい、「予は不肖ながら多年にわたり皇室に近侍し、朝廷へもとから疎(うと)んずる心はあるはずもないのに、鳥羽・伏見の戦いの一挙動は、不肖にも指令を誤った。はからずも朝敵の汚名をこうむってしまったからには、いまさらなんの言い訳もできない。ひとえに天のお裁きを仰ぎ、これまでの落ち度を謝るだけだ。部下の憤激はいわれないことではない、しかしもしここで戦をおこなってなかなか終わらなければ、中国(支那、大清帝国など)やインドと同じわだちをふみ(列強からの侵略・植民地化を受けて)、皇国は瓦解し、万民は塗炭の苦しみにおちいってしまうだろう。これを忍ぶことは到底できない」といった。また、慶喜は旗本・黒川嘉兵衛へ「(天皇家へ)恭順のほかに覚悟がないからこそ、(予は)東帰したのだ」といった。慶喜は旗本らへ「祖宗(そそう)(歴代徳川将軍)から今日まで、おのおの忠勤に抜きんでる秀でた働きをしてくれたのは感謝の至りである。予の薄徳かつ不行き届きにより、はからずも今の形勢に至ってしまったので、関西を治めている面々は以後朝廷からご沙汰の品もあるべきだろうから、予の思いが分かり次第、銘々の領地へ帰って朝命を遵奉し、武士と民衆を安堵させる政策をとってほしい。そうしてこそ朝廷へ恭順の趣旨もたち、予の尊王の素志にも叶うのである」と諭し、「いまの形勢は知行地(大名の領地)から米穀の運送がおこなわれがたい向きもある。追々、政府が古い例にならった家格を廃止することになるだろう事情は無論なので、各自の家来らのことをはじめ、みずから非常時の改革をおこない、今後の暮らしの道をたてるよう今から覚悟すべきである。くれぐれも、予の不肖からこの次第にいたってしまったと深く恥じ入っているので、実に気の毒と存ずるところである」とも諭した。慶喜はついで、1万石以下の旗本や御家人へ家族ののぞむまま知行地へ帰国・土着させ、恭順中は都下(江戸の都市部)の旗本・御家人による派手な音楽演奏(鳴り物)をやめさせ、月代をそるのも禁じた。また、慶喜は朝廷から譴責をうけていた会津藩主・松平容保、桑名藩主・松平定敬ら24人へ江戸城への登城を禁じると、恭順の旨をさとしながら遠く江戸の外へ退いて謹慎させた。容保は会津へ、定敬は越後国の柏崎へ去った。天皇家への恭順が日本国の為になると信じている慶喜にとって、容保と定敬の帰国は、対新政府軍の準備を整えさせようとした内意では勿論まったくなかった。 幕臣・勝海舟が「飽くまで上様(大君・慶喜公)が恭順の思し召しならばわが命を懸けてご趣意の貫徹に努めるべく、もしまた雪冤の戦(朝敵の濡れ衣を晴らす戦)をとのご上意ならば、まず軍艦で桜島を襲って薩摩藩の本拠を突き、また別の艦隊で清水湾の要所を抑え官軍の侵入を防ぐなどの策もございます。進むも止まるもいづれも御意のままに遵行いたします」というと、慶喜は「すでに一意恭順に決めた。断然と恭順謹慎し、天皇家(朝廷)のご命令を待つべきだ」と答え、勝は大いに感激して「そうならば飽くまで恭順のご趣意貫徹に向かって力を尽くさせて頂きます」というと、慶喜の命を受け東征大総督府の下参謀で薩摩藩士・西郷隆盛との談判に向かって江戸無血開城を成就させた。慶喜は幕臣・大久保一翁へも同じ趣旨を諭すと、勝とおなじような反応であったとのち回顧している。
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